個人を考えていたら愛に回帰(追記あり)

前回「自分的には他人の尺度で生きる場も必要だけど、自分の物差しで生きる場も両方必要」(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20160405)と書いて、じっと考えている。

自分の尺度だけで生きる個人の孤独を引き受ける根性がない。

治やんの

ぼくらの最終戦争(ハルマゲドン)―貧乏は正しい! (小学館文庫)

ぼくらの最終戦争(ハルマゲドン)―貧乏は正しい! (小学館文庫)

を読み返したら面白そうかと思う。

自分が正しいと思う自分教について書かれていたが、詳細は忘れた。

個人ってったって、自分教になるのはやっぱだめで、世の中分業社会なら、他人とのかかわりをどう持っていくべきかってところでfinalventさんのいうところの市民、になるのだろう。(結社本、絶賛積読中)

で、戦国妖孤で、つえーくせにおねーさん?に頭の上がらない子がいて、ずーと考えてたんす。

自分一人で生きれる強さを持って(個人であって)あえて、他人と関わる回路。

自分の思うように環境を変えれて、それを行使しない、相手の都合に合わせる回路って、愛じゃね。

弱くて虐げられても、虐げられるというのも、一つの関係の形ではある。(いじめで無視が一番つらくぽく)

被害者と思ったら、被害者の詩しか作れない、つーのもじっと考えていて、人との関係回路は、虐げられ、で確保するにしても(許すには愛にしても)、自分には別の顔を維持する必要があるって、自分の尺度かいな。


つえーくせにっていうのは、選択肢があるってことで、選択肢があるのに行使しないのには耐えられるが、選択肢がないのに現状に我慢しろっていうのは、暴力だ。

まったく世の中に拒絶されたときに生きるよすがは、社会的に無になっても保持できる選択肢って、鬱になるものしか浮かばないが、何かないのか?

他人を(精神的に)必要としない強ささえあればって、「そんな夜更けにバナナかよ」絶賛流し読みでよく分からない。


ちなみにfinalventさんに対する引っ掛かりとしてfinalventさんは「はてしない物語」の大ファンで、あれは愛について書かれた本でもある。

主人公が愛を得て、その後の苦難があっても、周りをほっこりさせた(自分の書庫では探しきれないので図書館で借りようと思ったんだが借りられていたり見つからなかったり)とかって、私の考えるのと違う愛の使い方だなって

この記事は同じfinalventさんウォッチャーのたろぁーるさん(http://d.hatena.ne.jp/taro-r/)にfinalventさんの思考を追っかけているのかずれているのかちょびっと色目を使ってみる←?


(追記)
漫研ラジオ聞きつつ、追記するのだがって、(ああ音が小さい〜)

強い人が、環境を変えられる強さを持って行使しない
→気に食わない人の気に食わないところを変えようとしない、受け入れる
→相手(環境)をありのままに受け入れる

弱い人も環境を受け入れる、受け入れない、の選択肢はあるか。

受け入れないにしても

世界平和は実現しない。だからってその夢を追うのは愚かなのか。
空を飛ぶことは300年前には妄想だった。500年前に空を飛ぶことを夢見た人の努力は無駄だったのかもしれないが、自分が捨て石になる覚悟なくして、実現できるものも実現できなくなる。(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20160405

現実を認めつつ、変えていく努力をする。

で、自分が捨て石になる覚悟をすることは、自分の前には失敗した人達がいて、自分に続く人達がいる確信があって、決して一人ではない、人との関係がある。

そこでは孤独に発狂することもない、かなあ?


さてさてっと、しかし「はてしない物語」には接続しないかなっと。