結果追及の有無と発狂するのはどちか

某氏の小説を読んで、うだつの上がらなかったサラリーマンが結果を出す、いいや、そんなことには興味はないんだ〜とうだつの上がらないことが目に見えている私なんぞは思うわけです。

彩雲国物語で、最後、主人公は死んだけど、娘が良い女王になりましたって、ハッピーエンドだったらいいのかよ、と思ったというか、

プラネテスアニメのラストから二話目が忘れられないのである。

無邪気に人の善意を信じていたような子が、空気のない月で自分の酸素ボンベは壊れた。気を失った元同僚のテロリストの空気をいただくべきか、でパニックになって終わる。

最終話で体が不自由になったことが分かるのだがって、自分の決断、自分がどう生きたいかが重要であって、結果なんて求めるもんじゃない。

世界平和は実現しない。だからってその夢を追うのは愚かなのか。

空を飛ぶことは300年前には妄想だった。500年前に空を飛ぶことを夢見た人の努力は無駄だったのかもしれないが、自分が捨て石になる覚悟なくして、実現できるものも実現できなくなる。

と結果を求めて発狂するぐらいなら、求める結果のラインを下げるのも重要であるが、叶わない結果を無駄かもしれないと思いつつ、負担にならない範囲で、(叶わない現実に死ねと言わない節度を持って)追及するのは有りだと思うんだけどさー

と、「されど、われらが日々」で佐野君が自殺したことが引っ掛かっていて、理想の実現にキリキリする生き方はつらい。

せっちゃんの、必要とされるところで頑張る、みたいなの、

自分的には他人の尺度で生きる場も必要だけど、自分の物差しで生きる場も両方必要、

というのは理想であって、現実に生きる場所がない。津波で家族が自分以外が死んだときに、自分がふと野の花に見とれることがあるのか。

まったく世の中に拒絶されたときに生きるよすがは何となるのか、ヒントになる小説が読みたい。

役割分担で食べ物を購入しているお金がある以上は、どこかで人との繋がりはあるわけど、コンビニみたくなのを加味すると???