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意図したことと結果が異なる時、どう裁かれるのか?
というのを膨らませたいのだが、頭ン中で下書きしたらよそ向いていったので、そっちにこけるよん。
秋津くんは、今の倫理(正しいこと)と未来においての倫理は異なる、と言っている。
でも、それって今の自分に引きつけて言うと、皆が正しいということを分かったふりをして受け入れるのか、あくまで納得できるかゴネるのか、であるし、
皆の正義はそれぞれ違うということでしかない。
未来の大多数において正しくても、正しくない集団はある。
大勢が正しいといったことが正しくない時もあり、額面通り正しい時もあり、渦中の人にとっては未来からの視点なんて分かるわけはなく、どっちに乗るのか。
自分が正しいことにあくまで拘るのなら、未来において正しいも大勢にとって正しいことも等しく意味が無い。
自分がどういう生き様をしたいか。自分が背負える責任はどれだけか、逆算するか、
逆算さえできない、自分一人では背負えないが決断しないといけない時は来るのか?
まあ、先は分からないけど、人生は決断なわけで、選択肢なんてあって無きのごとし、前回の記事に戻ると、
分かっていてどうして毎日英語の勉強が出来ないのか、習慣だとか、いろいろあるし、傍から見て損な生き様をしているなーと思っても本人にはそれしか道がなくて、
選択肢なんてあって無きのごとし。
誘惑に弱い身からすれば、誘惑に打ち勝つことのできる人は偉い。
偉い人は誘惑に打ち勝っているものとばかり思うけど、打ち勝っていると見えるのは他人から見てで、本人からしたら誘惑を感じていない選択肢のないものだったりするのだろうか。
昔は犯罪者を見て、自分が犯していたかもしれない局面を考えて、今は先天性の異常者だと切り捨てるのだか、
人の個性をどこまで認めるほうがいいのか、同じ人間だと思わない方が生きやすいのか、
理解できない他人と共存する、ってことがよくイメージ出来ない秋津くんである。
理解できない他者にこれだけは守ってもらいたいルール、社会と共同体、自分の意志を持つ人同士が寄せあって生きる術はやっぱり我慢はしないといけないんだろうけど、
我慢できることが皆同じわけもなく、個人と社会が直接つながったら、同意点が難しく、
集団が幾つか集まると考えると、集団同士が同意できる点と同意できない点、
グラデーションができる。
グラデーションの端と端の接点は、難しそうで、でも、自分の理解できない他者が生きる世界でないと、他者に理解されない自分は生きていくことが出来ないって循環してきた(中学生レベルで)。
他者に理解できない自分もコンビニさえあれば生きていくことができるのか。
コンビニがあれば生きていけるという時、コンビニと自分を支えるものはなんだろう。
って、おおかみこどもの雨と雪じゃないが、物々交換でも生きるすべはあるのか?
いや、それは、病院のない共同体に内包されるけど。
コンビニさえあれば生きていける時、個人が社会にむき出しになっている。
セーフティ・ネットなしで。
金の切れ目が縁の切れ目のどこがまずいのか。
私は他人に合わせる場と自分の価値観を生きる場所の両方がほしいと書いているのだが、しがらみも自分が納得できた、選択したものだと思うことが出来れば、苦痛も減るだろう。
うーん、10年前の宮台先生の内側だな。
田舎の良さと都会の良さは被らず選択できるものになるのか、なんとなくペトロニウスさんを思い出しつつ、コニュニタリアン、自由と平等と共同体のどれを取るのかってのに行き着くのかな、道州ごとに選択肢がちがうっつー事になるのか、
高校生時分に岩波新書なんて知らなかった身は、大学は好きな勉強してみたかったと言う、子供には都会の上流で生きる選択肢を残したい、
それだけで、都会に生きる意味はあるのか、じゃあ、田舎エリートは田舎の良さを知るには一度都会で仕事した方がいいというのはあって、
都会人間は一度田舎に出てまた都会に戻るのか、
なんとなくなんとなくでした。