悪を為す環境に置かれない運の良さは威張れることじゃないし
なんか浮かばないか先のオチを考えずに書き連ねる(っていつものことだったりはするが)程度の甚だしいのに「ブレスト」のカテゴリーを作ってみました。
今日のお題は意思と結果である。
- 作者: ジュリアンバジーニ,河井美咲,向井和美
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2012/03/01
- メディア: 単行本
- 購入: 7人 クリック: 51回
- この商品を含むブログ (17件) を見る
ふうん、当たりもあれば外れもある(当然だ)
ただこう並べられてみると、つながりが見えるような見えないような、これ、全部暗記せな(?)つながりのシャッフル分からんやろうけど。
でも覚えてみても面白そうかな、とそれはともかく、
ぼかー、「のらがみ」のような、穢れ概念、よく分からんと。
悪いことをして穢れる。
さて、いいことをしようとして悪い結果になる、人生万事塞翁が馬な時に、罰が下るのかってな問題である。
先ほどの本に悪いことをしないように洗脳するのは(時計仕掛けのオレンジって読んでない)ありかなしか。
やっぱり嫌悪感を覚える。
人は悪をなす自由がないと、善をなす自由もないだろう。
始めから選択肢がない行為を善とは言わない。
善をなす自由と考えたとき、生来の性質が善であるのが最上であるのか、義務だから善をなすほうが尊いのか?
生来の性質が善であるのは、本人が選択した結果ではない。
たまたまの運である。
たまたまの運と意思とどちらを重く見るかゆーたら、私は義務感のほうかな。
義務感のほうにしても、現在の義務に殉じただけで、未来の価値観に対して殉じたわけでないし(たとえば人種差別とか)、そこに引っ掛かりは覚える。
いつの時点での善なのか、としたときに、いいことをしようとする意思と結果の対応をどう考えるのか。
いつの時点でも正しい結論は、それこそ正義論であり得ない。
想定した結果と、実際の結果が異なる場合、と、「はてしない物語」を読んで、少し下心があったことが重くのしかかる、絵が壊されたりも場合もあるし、下心があってもロバのように上手に回ったということもあるだろう。
わき見運転が事故の有無、結果によってジャッジされるのならば、行おうとした意思はどうでもよいものだろうか。
たまたま運が良かったことが顕になる。
悪を為す選択肢を頭の隅に置きつつ、善を選ぶ。
ということはどちらに転ぶのか偶然に過ぎない。
運をどう尊ぶのか。
結局、悪を為す環境に置かれなかったことを神に感謝するとしても、運である。
善をなす性質を持って生まれた運と変わりない。
悪を為す選択肢を持っていても、悪を為すかどうか、自分はそれほど強い人間でないことを自覚していれば、自信を持って断言できるものではない。
悪を為すことで生き延びる環境に置かれなかった確率の問題がその後の人生を決定的に変える。
いや、finalventさんが正直であると、裁判の席に立った時に聖霊が代わりに立ってくれる、だったけな、みたいなものもあるかもだけど。
友達がお前はきっと漫画家になれる、といったその5年後にあれは嘘だったといっても、別に気にせんやろ。
起こったことをどう受け止めるか、だけは自分の意志で決められる。
(欺瞞も生じるだろうけど)
善を為そうとして思った結果にならなかったとしても、それはそれで人生そんなものである。
人が悪を為したと思っても、その人の意思は分からない。ふと魔がさす、そんな瞬間の分からない人もいるだろうけど、私は分かる。
起こったことに粛々と対処するにしても、嘆いても覆水盆に返らずで悪を糾弾する側には立ちたくないものだって言える大事なもののないっぷりではあるが。
人を糾弾しないことが私の正義であるかな。