知ること
今日は5時起きなので眠いのよってなわけで、ちょいと巻いて書きます。
昨日、集団云々書いていたのは、自分と自分の所属集団とその他の集団と(って竹田青嗣だな)を考えていた。
世界統一政府か、国か、に対しては、多様性の維持という点で、絶対守らなければいけないことでさえ、選択肢があったほうがよかろうというわけで、世界統一政府の線はなしだとも思った。
しかし、アメリカの州と国の関係って、州でも法律持っているよね。
アメリカ外部を意識してはなさそうで、ちょっと調べてみたいっつーか、絶対守らなければいけないことがないのなら、絶対許せないこともない。
ぼかー高校の実験で赤血球を見るのに、指に針を刺すのも痛くてできなかった痛いの大嫌いで、アフリカの女性の割礼とかドン引きである。怖い。
そんなのを肯定できるかというと、便利にならばなるほど交換可能性が高まって人生薄くなる、ような、幸せの形は一つだが、不幸せ類型はたくさんというか、人生のかけがえのなさは、イベントの大きさで決まる、ということもあるかもしれない。
要は、そんなの嫌だと思ったときに、代わりの場所があるなら逃げれるか。
ただ、僕ももう高知県から移動できない。しがらみ多すぎだし、いまさら他の人生なんてリスク高すぎ。
としたときに、閉じ込めておくには情報を知らせないこと、と結界師の次のマンガで言っていた。
情報統制は独裁国家の常である。
一方で、選択肢の多さが不幸になっているともいう。選べたはずのほかの人生に対する哀惜。
知ることが不幸なのか幸せなのか。人によって違うことで一概には言えない。
と、ニーチェの批判もなんとなく想像がつく。
生きる喜びなんて、変わっていく。経験しないことを喜ぶことはできない。だからといって、今の楽しいことを我慢して、将来楽しいことに備えるなんて、将来のことなんてますますわからない。今の追及がマシぽい気もする。
で、昨日の話である。
「あなたに私の持てるものを奪われる「可能性」に憤るのと、私が今あなたに必要なものを与えなかったら将来あなたが私を害する「可能性」
可能性の問題でしかなく、どちらにリアリティを感じるのか?」
未来のことは分からない。どっちに賭けるか。
って自分、
でも、いくら想像力ったって、自分の経験していないことで納得するのは無理なんである。
自分の経験していないことを相手がそういったからと言って納得するのはただの言い逃れを真に受けることではないのか?相手の言っていることが真実であるか、言い訳であるか、経験もない判断材料がないのに分かるわけがない。
自分の経験したことのないことを相手が言ったときそれに納得しないは、日本人だけの行動パターンでもなかろう。
だけど、自分が納得できないことを相手が話したとき、一方的に断罪するのは想像力がなさ過ぎて、やめとこー
http://d.hatena.ne.jp/akizu/20130414/p2
とも書いていまして、知らないことに対する態度には保留もある。
まあ、当事者になった場合はどうするかってのもあるんだけど。
おお、偽科学か。誰かが言うことを信じる限りにおいては常にだまされる可能性がある。
しかし、難しい科学の理論なんて難しくてわからないので人の言うことを信じるしかない。
対策としては、常に情報収集をして新しい情報を得ることしかない。永久に対症療法。
えーと、もう寝る時間だけど、蛇足で。
最近頑張っているので、時計でも買っちゃおうかな、と思ったのである。
6万9千円の時計が1万5千円のを発見してまして、クロノグラフだし、まま、変なブランドだろうけど、いいか、みたいな。
買って家で検索すると、中国製2千円とかってそれはないだろって焦る。
箱とか一応手が込んでいるし、と探すと、5年前の時点で6万9千円、今はYAMADAの通販で7千円。
まあしかし、私はこのサーモンピンクよりちょっとオレンジ寄りの文字盤の色が気に入ったのである。
1万5千円の価値はあると思ったし、スウォッチだってクロノグラフは2万円からだし、ま、いい勉強させてもらいました。
後悔しない自分の余分な資源である限りは楽しいんだけどな、食うや食わずになるのは有りかって、ドイツ、そこまでじゃないのに雰囲気悪かったしな。
それこそ線引きは人によって違うんだろうけど、ああ、本当は今日の記事の題名は正義論とは?も考えていたのよね。
皆の納得線と、昨日の記事で言えば、未知を楽しめるようになるには、自信のせいかというか、教育的には?であったのだけど。