人生が一本の道であるならば
(1/8追記あり×2)
竹田青嗣の本を読みつつボーとしていたらなんか閃いたけど、パソコンを立ち上げるうちにどっかいってしまった。
人生が今まで自分が歩んできた道以外の道があったとして、その異なる経験をした自分は現在の自分でない。
結局人生が一本の道であるのならば、(ってここまでは覚えているんだけど)
finalventさん風にいうのならば、現在の自分を愛すしかないってことで、うー忘れた。
いや、次回の更新は(わくしゃ10時に寝るのよ)竹田青嗣の本にしようか、ブログネタは常に更新されているのであった。
ちっ、1992年の竹田に完敗であった。しかも読み直しで気づくアホさ。
本は読みなおして発見がある、というのは、口に出すもアホらしい陳腐な真理であるが真理なんだよなー
まあ、お茶濁しに、人生が一本の道ならばって膨らませてみる。
一本の道しか認められないのならば、その道を否定する別の道は仮定であるし妄想だ。
現在を肯定するしかない。
あり得た可能性に対する哀惜はあるにせよ、過去は変えようもないし、今からを頑張るっきゃない。
って、自発性は、自分が人生を変えれると思っているのか、変えようもないと思るのかで決まる、とニチヨーに読んだ本に書いてあった。
私は変えられるのか変えられないのかあらかじめわかるのは神様だけだから、人間はあがくんだよ、のたぶん実存主義者なのである。
結果に満足するんじゃなくて、過程に価値を置く。
人生は結果でなくて過程であるのならばなるべく楽しんで苦しみたい。
自分で選んだ道だと納得したいというか。
だから人生を変えられない、選択肢がないと思ったら、自発性もなくなるんだろうか。
自発性を持つには、選択肢を与えること、自分が判断する状況があること。
いや、いつぞや、漫研の再契約について書いたな。自分が判断されずに流されたことは納得しづらいと言えるのか。
選択肢を行使することは自分が今に対して不満がある、ことで、不満がないことも不満になったりする。
ことは置いておいて、不満があるのに、そのままの状態であることは不満状態の維持である。
竹田青嗣に言わせるとエロスの追及をしないのはなぜってことだろう。
資本主義においては自分の欲望を追及するのが正義であるので変に思うが、それはそれでありなんだろうか。
「50の哲学問題」で、ふううん?と思ったのは、疑うには自信が必要だ、と書いてあって納得はしなかったのだが、著者には確信があるんだろうな、さてその理路が理解できずにいる。
理解して自分は賛成しないというのなら、それはそれでありだけど。
批判するには自分の価値観の正しさが確信できるのならというのなら納得できるんだけど。
その考え方もその人にとってはありなんだな、と思うと、他人に対して突込みができない。
人に対して、賛同もしないが批判もしない、全く他人と無関係になってしまう、市民社会であるのだった。
不満状態の維持をするのならば、自分に対する尊敬の念がないというか、不満で他人を動かすことを考えていない。
自分に対して、自信がないのか。諦めなのか。
自分が流されたことに対して納得感があるのなら、現在の肯定は、現状の肯定で、物語の主人公が行動するのは、現状を変えていこうとする意志が必要で、目標と現在の落差の確認は、必要だろう。
人生が一本の道であるとしてもPDCAを発揮しないとつまんね、であるのか劇的ではないよな。
自分が自分の人生の主役であるのならば、主体性を発揮したい、というのか、わたくし、先輩に生きづらくね、と言われたのでした。
(目標めちゃたか、でも結果は気にしないのでモーマンタイ、あ、10時35分だ)
(追記)
人間は他人の影響で欲望を持っていて、(ラカンだったか)、ニートのように他人と接点がなくなれば欲望がなくなるっつーんなら、社会としては(大きいな)子供が欲望が持てるようにってのも大事なのね。
欲望がないってことは(他人に期待していないってことでもあり)、他人との接点がないことだから、とても苦しいのでは、と思ったり。
期待水準と願望水準?
(追記の追記)
50の哲学問題で、強欲はダメ希望があるぐらいの中庸がいい、と書かれていた。
他人との折り合いを考えない中庸はダメだし、他人に対して期待しない、希望がない状況もどうよ。
そこそこ期待(希望)がある状態も大切ね。
私は祈りと言っていい、願望水準を大事にしたいのだがって、コスモポリタンにはなれそうにないけど