愛を得るより与えるほうがマシ

自分が書いて楽しいけど、他に誰か読んで楽しい人はいるんだろうか編、今日のお題は、やっぱりニーチェの言うこと(って読んでないけど)やばいのかな編だよん。

「されど、われらが日々」で他人から必要とされるところで働くことが、無為の回答っぽくもあった。

私は究極的には、他人なんて自分の思い通りにならないもので一喜一憂するのはヤダ。

どうなるか分からないので、結果がどう転ぶかワクワクして、難しいことを達成できたらうれしいッつーのはわかるけど、でもそれは、自分で今日、××をする目標設定を立てて達成できたらうれしいってことでも代替できそうな気がする。

やっぱり、一人は寂しいから、人と触れ合うっつーのは特別な何かがある、んだろうな。

私が、他人の評価を得る場と自分で評価する場の両方が必要だと言いつつ、他人で必要とされる場は仕事だけで十分だっつうーのは、私事で家族と上手くいっているから、他人の評価でキリキリ舞いする羽目に陥っていないだけだ。

「されどー」の佐野君が自己満足だけでは、自殺したように、人の評価が得られないことだけは10年続けれられるのかって、宮台真司は家族なしに仕事に対する情熱は持ち続けることができないっつってたし。

与える場か。児童養護施設で夜、勉強を教える人を募集していることは知っている。

ユウタロスさんが子供がいないとおかしくなる的なことを言っていたような、子どもができなきゃ、6年後ぐらいから、施設のほうにかかわっていこうと思っているのだがって、いや、自分のができないって言っちゃまずいんだろうけど。

というか、母親の愛情は十分受けてきて、ない状態が分からないので、愛情がない状態がどれほど辛いか分からない。

母が死んだ夢を見て、飛び起きたのは認めるが、二度寝はすぐできた動揺度であった。

橋本治は少年期の美しい思い出がその後の人を支えると言ったような、愛された思い出でその後にどれほど孤独に耐えられるのか。

全く想像がつかないって、相方できたしなー倦怠期るかな(やっぱり)

隆慶一郎が、真田のような育ちのいいお坊ちゃんは戦の粘りが足らないと書いていたような、私は土下座して人の愛を請えって言われたら絶対ヤである。

自分の評価と他人の評価っつったけど、問題の正しい設定としては他人から必要とされることというのは愛を得るということである、と言っていいかな。

自分が与えることは操作できるものであっても、人から与えられることを期待しても自分の思いどおりにならないもので、一喜一憂するのもしんどそうである(そこに戻る)

大きなことで言えば、公の愛、というか、「私」を見てくれたかどうかはわからないけど、その場にいたから、(finalventさんが言うのなら公正になるんだろうか)、自分が与えられたものを、負担にならない程度で?手渡してくれる愛で救われるということはあるだろう

愛を得られなくなったときを心配しても先のことなんだからわからないし、自分が手渡すことを考えたほうが建設的な気がする。

独りよがりにならないためには、人の気持ちを考えたほうがいい、他人から必要とされることを見極める目を持ったほうがいいんだろうけど。

拒否られて当然でも、私がしたいからするのである。って佐野君のようになるのか、ニーチェも自殺したし(って詳細知らんけど)

自分の持って生まれた運命を受け入れるということにしかならないのか。

恋い焦がれるものがある人生って、濃密だな(慰めにならない

ン、結論なしかな?


(追記)
ただの労働力を提供しますっつったら、必要としてくれるところはかなりありそうな気もして、その程度の必要とされる、で十分ではないかと。

愛を得る、とはまたランクが違うかもだけど、必要とされる喜びは満たせそうな