善人という言葉は私の辞書にない

[結論がアレなので追記しました]


「本物の善人か試されてる、生かされたけど人生上手くいかない」なんて言葉でうちのブログに来た人がいるらしい。重いな。

ヤフーニュースで下流老人の特集してるんすかね。

介護のため職をやめ、そのままホームレス。

私の辞書には、そこまで生きる死ぬにかつかつな状態はないんだけど、ヨブ記か?(読んでいない)

神は試すなんてことなさるんだろうか?

私の神様は私の判断をじっと見ているだろうが、そこで責めたりはしないかな、私も人間だし、コケる時もあるだろ。

善人であるという設定は私はしない、誰にとっての善人かはっきりしないので。

生きる意味に拘るのは、たぶんfinalventさんが問題意識として持っているから影響されて、私自身としては腑に落ちていないというか、使いこなせていない。

誰にとって都合のいい人であろうか、だけれども、生き様としてこういう生き方をするぐらいなら損失被ります、な気持ちはわかる。

分かりやすく言えば、友達を売る、であるかもしれないし、でも友達を売ると家族の安全を買うはバーターになる時もあって人生だなって感じだがそれはともかく、

損失が辛いなら折れればいい。それで私が私である核がなくなるのかな、というところで、貫き通せないのなら、なんか問題設定が間違っている可能性も考えてしまう。

私の核を守るために何を犠牲にするのだ。意固地になって他人に迷惑をかけている可能性もある。

彼女は、本当に困ったとき、誰も助けてくれない、と言って、確かに100万貸してくれる人はいないかもしれない。

でも、袖すり合うも他生の縁というか、気にかけてくれる人はいると思うんだよね。

その人に気付かないのは、触らぬ神に祟りなしの顔をしているか、ささやかな厚意に気が付かないぐらい他人への要求が高いのか。

まあ、世間の風は辛く厳しいって、人生がうまくいかないのを悩む、世間を怨むぐらいなら、問題設定が間違っている気がする。

私のモットーはニーバーで、

神よ、

変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm

変えることの出来ないものは冷静に受け入れろ、である。冷静さを持てないのが人生であるだろうが、怨むぐらいなら、あーあ、俺は馬鹿だな、でもしょうがなかったと、ホームレスを楽しむ状況には、まあ正職員の身では言いづらいが、自分が正しいと思う道を行くのなら、スッキリも出来ると思う。

結果が気になるのなら、結果に合わせて、核を変えていくしかないのではないかと。

生かされていると思うのと、何かを期待して生かされたと無理に使命を感じなくてもいいと思うんだけどさ。

神の意志なんて分かるわけないやん。私が好きに生きることを望んでおられるんですよ。それでもヨブ記においても神はヨブを信頼していたって、自分が辛かったら好きに生きていい。

親に縛られた子どもとは違うんだし。

3人の友人に責められて、でもいいっす、と思うときに神様は必要だけど、辛い時の言い訳に使っちゃいけないと思うってなんかはじめの話題とずれたな


[追記]

そういうお題目を大事にする私は、心身に不調が出るので、そんなもんです(キラッ

というか、自分を縛るルールはなんのためにあるのか。

ルールが絶対というわけではなく、他の選択肢もあるけど、あえて、選んでいる感がないとユーモアの一つも出てこないのは辛いような

というか、力を持った時に暴走しないための歯止めにはって言うのとも繋がっているか(以下、次の記事に続く