正義の感覚

私のモットーはラインホールド・ニーバーの言葉である。

自分の操作できないことで思い患っても時間の無駄。

もちろん、そう割り切ることのできないもやもやがあるので、あの言葉は重いとは思う。

ま、他人の行動なんて自分の思いどうりにならないことは考えるだけ無駄だろう。

私は私の在り方を貫くだけ、とか、

橋本治、私の解釈のレベルでfinalventさんが恐れを抱くわけない。

シンデレラボーイ・シンデレラガール、だったっけ、運命を信じない運命論者。

変えられないことがあって、じたばたしても無駄。(とここまでの論理ははっきりと覚えている)

でも、変えられたのかどうかわかるのは神様だけで、あとでブー垂れるのも、ね、で、

気が済むまでやりますよっつーのが私のモットーである。(いや、それで破綻したので、治やんのいう通り、何事もあきらめることも必要だとは思うのだが)

どうにもならない外の枠に打ちのめされながら、欲望を通そうとしてあがく、そのジレンマのギリギリ感に倫理の枠が絡まって(と、言葉にしたらウソになる領域に入るので以下略)

なお、秋津君は今週、週4で飲み会をこなさなければならない、今は酔っ払いで、気取ったこと書けないのだがって、今回のお題は正義の感覚、である。

大学生のころ、小室直樹を読んだとき、今まで雑多に並べられていた知識が、ザックザックと一本の線できれいに並べられたような、見通しの良い感覚、というか、これは間違いない、という澄み切った頭の中になる感覚は私の中では正義の感覚、と呼んでいる。

だいたい、世の中は割り切れないのに、あーでもないし、こーでもない、考え込む余白が全くない状況というのか、自分の意見を絶対視する感覚である。

この見晴らしの良さは、はっきり言って酔う。気持ちいい。

まあ、私の場合は通常運航でないので、その状況を離れて30分もすれば目が覚めるのだがって、この感覚のまま生きている人もいるんだろうな、と思ったり思わなかったり。

割り切れなさを維持する頭の余白部分の多さは、天与のものであろうだろう。

なかったら白黒はっきりした世界観でもっと楽に生きれたのに、とちょっぴし残念な気持ちもある。

ある意味で頭が整理できていない、おつむの弱い子だと思うが、ま、両親には感謝している。