なんか自分が生かされているなと思う時ってないですか

が、振り返ってみると、「赦し」というのは自我の業ではない。赦すと理解してあとは神に委ねることであり、神を信頼することの一つの帰結である。では、どのように神が信頼できるのか。神が信じられるのか。

 私の、残念なことではあるが人生の結論は、信仰というのは無理だということ。人は信じることはできないし、あるいは信じているときは欺瞞があるだけだ。ただ、それを信じていると言う人を批判すべきではない。

 では。Acimのレッスンを振り返ると、信仰の不可能性は先見的に含まれているのではないかと思う。ここは逆で、レッスンとは神への信頼を鼓舞するのではなく、神の側は私に向けて信頼を懇願しているということでもあるのだろう。そしてそのことが聖霊という働きであり、呼びかけるのがキリストであり、キリストが神の子であるというのは、呼びかけられた私が神の子であるということだ。その原理だけ抑えれば、キリストなりイエスなりというのが私という固有性が私の了解にあるように、そしてそれが本質において神の子という普遍性であるなら、「キリスト」も「イエス」も必要とは言いがたい。実際、マニュアルでは明示している。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20130623/1371944915

信仰を持つのに理由を持ったら、結局それは今の自分でジャッジしていることになる、未来の自分から見て納得できるが今の自分でわからないという含みがない、のならば、結局、理由がなく信仰するというのは、感じられる、ということになるんだろうか。

感じられるかどうかは、自分で決められることでない。

どうして自分が自分であるのか、自分性は何によって決められたのか、考えても理由のないことで、そこで神を持ってくるのは負け(って何)のような気がする。

最も理由なく人を信じる、そこに欺瞞がないのなら、(finalventさんに引きずられた)、祈りと読んでも差しつかえない(私もその道に連なりたい、という気持ちもある。

また、私は子どもが生まれたら日曜日に協会に行ってみたいかも♪と思っているし(でもこちらからの金銭・労力の提供を求められるんだろうな)、30年後に全くそっちに転んでいないかと言われたら、断言も難しい。

自分語りになるが、私はあまり人を悪く思いたくない。

悪く思った時の人間不信の黒い気持ちが嫌なだけなんだけど。

そういう気持ちになるぐらいなら、多少の損を被ったほうがいい。

「多少」の損が「大損」にならないぐらいには、恵まれた人生というか、まあ多分どっかの時点で人を切ってはいるのだと思うが(無自覚)、それほど親しく頼られることもないしな

あまり人に対して期待していないし、こうであるべきとも思わない。

兄貴を見ていたらそんなこんなに腹を立て、生きづらいだろうなとは思う。

私も5年に一度ぐらいは頭が沸騰して、聖人じゃないけど。

だいたい、昔のことは中々覚えていられないのにも助けられている。忘れっぽい僥倖を得たのは、たぶん、誰のおかげということもないだろうが、そこに神を代入したいとは薄々で、たぶん日を過ごせていることをだれともなく感謝して

で、冒頭に戻り、神に呼びかけられた、という感覚はわかるような気がする。

という思いと、世の中無意味だな、と思う感覚はたぶん裏表で、無意味に無理に意味づけして物語を生きようとしているだけかもとは(ペトロニウスさんに引きずられて)

日を過ごせることを感謝する気持ちは、何事か起こったら感謝できなくなるものだろうか。

たぶん感謝できる、ありがたいことだという自覚は、病気して不条理を経験しているので、中々ありえない状況の自覚である。

 今思うと、この時の思いが底流として『考える生き方』の執筆につながった。そしてそれはそれなりに一つの形になった。うまく言えないのだが、自分のつまらない人生のなかの、そのつまらなさの普遍的な部分で、多くの人の人生と共有・共感できるものがあればいいし、率直にいって、不要な誤解を避けるためにネットの公開でないほうがいいだろうと思った。それでよかったかどうかは、私にはいまひとつわからないが、「日本人の」という限定をそれほどしないにせよ置いて、ある偶然という幸運のもとに生きていく、奇妙な意味と、そのなんというのか、楽観的な部分をできるだけ伝えたかった。直截には書かなかったし、さらっと読めるように書いたけど、普通の人としての苦しみにある人は、私くらいには生きられますよ、そんな思いだった。職を失うことは普通のことだし、友だちから見廃れることもある、精神の不調を来すこともある、結婚もできない子どもももたないということもある(が、自分は偶然そうでもなかったが偶然だった)、難病になることもある、など。自分をあまり悲劇に書きたくはなかった。本当は、自分をもっと低くめて書けばより伝わるだろうと思ったが、偶然的な幸運もあり、そこはうまく行かなかった。低く書くことがそれなりに嘘になってしまいそうだった。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20130622/1371882454

ある偶然という幸運のもとに生きていく、その感覚はよく分かる。

これからどんな悲惨なことが起こっても、その感覚は維持できるのかというのは、人生甘く見すぎているようで、断言はできないのだが。

どんな悲惨なことが起こっても変わらない自分の維持が出来るのか。

内田のタッツンいわく、強い現実と弱い現実、だそうです。

もし、☓☓にならなかったとしても、たぶん同じことをしていた自分に対する信頼というのは、まだまだ私に言えることじゃないけど。

どんな悲惨なことが起こっても私の人生と割り切れる、悲惨さの中でも喜びが全くなくなることはあるんだろうか。

どんなに悲惨であっても、そんな中で生きているって不思議というか

ふと初夏の緑に見とれることもない人生、てのも、大きなものの一部である感覚、大きなものに生かされている感覚を忘れることがあるのか

たぶんその感覚は、神がいるってことにもなるんだろうけど、これって道教なの?自分が被造物である自覚はないな。

と話は変わりますが、牙狼のレオンくんの立ち直りは、説得力があるのか、まあありかな?

どうも、橋本治の話をかけとリクエストされているようないないような、で、負けない力を読み返し、長くなるような短く済みそうな、ハードルが上がっているんですよね