人生における過程と結果
(追記あり)
- 作者: 水野良,出渕裕
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1995/07/31
- メディア: 単行本
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アシュラムさんは、「子供を残すだけの人生に何の意味があるのか」と言っていたような言っていなかったような
人間結局死ぬんだし、無意味と言えば無意味である。
価値がある人間とは代替がきかない人材であり、100年後にも名を残す人材になれなければ、価値がないのか、
とした場合、明治時代の人名を言えるのはさて何人か。数千万人に一人のレベルだろうか。
ほかの有象無象は無価値だったのだろうか。
他人から見て無価値な自分、という軸は、他人から見た価値であって、自身で感じる価値もあるだろう。
マイブームの超人てなやつである。
結果を残せないとクズか。食うに困るのは困るので、他人の役には立っておきたいが、いつかは終わる人生の過程を楽しむ。
ムキにならない余裕、不条理を楽しむには、最後、ご破算になるのを知っていれば、か?
って、たぶん、これは独身者の意見で、ユウタロスさんの人生の最後に思い出す自分の子供のこと、みたくは含まれていない。
人間であること、大勢の中のひとりである安らぎ、なのかなーよく分からない。
他にも生きれただろうが、ほかの人生を生きた僕は、通した経験が違うので、今の僕とは別物である。
「この」僕を愛おしむことは、たぶん理想を掲げ、敗れた僕を愛することにもなるんじゃないか。
僕を苦しめる理想とはなんなんだろうか。楽に生きることを拒む。
(新しい古典を読む、の文脈に飛んでいます)
自分の許せなさ、こうあるべき自分を妄想する、汚い自分を愛してくれるとしたときに、日活ロマンポルノの無垢な聖女?って分かる気がする。
なぜ、近代日本の青年において政治と性が関係してしまうのだろうか。本来なら、政治とは公的な共同性の幻想であり、性はプライベートな幻想であり、分離できるはずだ。しかし、そうはなってこない。この問題は難問だが、おそらく、前近代社会の人間の心性においては、共同性への欲望が性欲によってかたどられているからだろう。戯画的な比喩を出すとすれば、一人の青年が愛する女性に、その愛が本当であるかと問われるとき、公的な社会の正義に生死をかけることで保証されるような心性があるのだろう。
https://cakes.mu/posts/10892
の文脈が全く分からなかったりもする。
こいつのためなら死ねると思う、こいつのために理想的な自分でありたいのか、ってまったく論理的でなし、よく分からない。
対比として、世界の意味が最初から不在であった、人のほうが私の感情移入を誘う。
世界の無意味と付き合う処方箋として、冒頭の自分の価値観を生きる、んだろうが、
ベントさんの結論曰く、処方箋になっていない、みたくである。
全く世間と隔絶した価値観の欺瞞、だろうか。
手に入れないものに恋焦がれて、身を焼くのも人生よ、で、それはそれで苦しさが人生の意味をつかさどるのなら、オリジナルな人生を生きたことにもなるだろう。
孤独をやり過ごせる人とまともに向き合(って潰れる)人の違いはなんなんだろう。
(追記)
唯一無二の結果ではなく、唯一無二の過程を生きよう、か?
世界の無意味と向き合う処方箋だけど、ネタ本は読んでいないので、卑近に書きすぎたかも。「人は生きたということ」だそうです。
「されど、われらが日々」、図書館が遠いです。