根拠なく信じることが宗教がからない時はあるのか
えーとポエムというか
- 作者: H.S.クシュナー,Harold S. Kushner,斎藤武
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/03/14
- メディア: 文庫
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ちなみにすでに事務所のカギは開いていました。これで残業が年に100時間なわけなかろうだけど。
人が良いことに動機づけられている、悪いことをしたがる、って自分では決めようのないことである。そうとしか言いようのない。
で、思い出したのが、病気になる、みたいな不条理である。
それに何か原因があるのかと言えば、そうとしか言いようのない。
そこに原因を求めてしまうのは秩序を求める人のサガなんだろうけど、あの人が交通事故って私がならないのに、理由なんてない。
たまたまである。
たまたま日本に生まれたこと、私がこういう性格に生まれたことに理由付けを求めるのは無意味だ。
根拠なく信じたがるのはどうよ、と思う。
と断じて、私がこう生まれたことに理由をつけたがる気持ちは理解できる。信じることで不安を取り除きたいのなら。
私は真理を求めたい。
間違えたくないから正しい真実を信じ込みたいのである。
正しいことをして、安心感を得たい。
て、不思議ぽく思ったのだが、信じるということは選択肢を放棄することである。
現状からのフィードバックを拒否する。
私も、人がどう転ぶかわからない時に、信じてあげたく思うのは、根拠なくそうすると決めたからで、結果は気にしない。
結果を気にしない、選択をする。
選択をして動揺するのが嫌なんだろうか、としたときに、考えることの放棄、ともいえる。
選択した結果の不利益を被るので覚悟はあるのか?
考えることの放棄は、はっきり言って橋本治の徒としては非常に嫌なことである。
信じることは不安の放棄、とした場合は。
あえて、信じる、とぷかぷか浮かぶものはあるんだけど、オチがつけれないのであった。
信じることが宗教がからないのはどういうときか?無理?
すべてが合理的であることは現在の価値体系に対し従順であるということで、不合理でいる自由、あえて不利益を被ることで生きる意味ができるとは私の考えであるが。