誰もが納得できる考え方

(9.11多少書き直しました)
風が吹けば桶屋が儲かるって私はかなり好きな言葉である。

自分なりの意見というのはそんなもんだと思う。

論理を繋げていって、でも、自分に起こった事だけを繋げると、全体から見てそれって、あまり起こらないことだらけで、破たんしている。

合成の誤謬は本能に反するから学生時代に叩き込まれないと理解できないとあるのを見たことがあるような、

私の例でいうならば実感と異なる統計ってやつだが、納得できない、歴史から学ぶ的なものはなかなか身につかない。

身の回りに起こらないことだから。

司馬遼太郎が竜馬の内心を近代人として描いてあるのが変、だったか、

内田樹が弱虫をやっつけてもやっつけた側の評判が下がるだけなので日本は安全、(とはいっていないけど)、

自分のつもりで相手に対するとすると、妻がクーラーつけて涼しくていい気分なのに、ガウンを着せたがって困るなら可愛いもんだが、

自分の思考回路以外はなかなか納得できない。

自分の思考回路で相手を理解しようとしてもダメっすね、だが、理解できない人の言葉を丸のみしようとしても、それって自分の人生を生きているの?である。

結局、自分は自分以外になれず、変人の道で良しとする。

経験と歴史の両輪で、どちらに重きを置きすぎても、生き辛い。

昨日の平川さん、結構読むのおもろいんだよね。

集団の思考と個人の思考って、上記の事ともいえないか?とか。

「徹底的に考えるという営為において、自分が社会的な異物を選び取った」つーのは、桶屋でいくぜってなことだと思う。

と、昨日のは論点が本に沿っていたので、次元を繰り上げてみました。

平川さん安保反対なんだよね、デモに参加するって恥ずかしくないか、と思って、自分の考えにどれだけ拘り行動するのか。

ぼかー集団の論理に負けますね。

人の目が気になって、と、桶屋論理、異物にはなかなかなれにくい。(異物って佐藤優の知識人ってことだよね)

ブログでは好き勝手やっているけど。

てか、私の悩みは、上司の言うことというか、周りの言うことを鵜呑みにしすぎるのは、もう少し、自分を出して仕事せいってことなんだろうけど。間違ったってええやないのと思うことだすな。

バットを振らなきゃ確実にストライク。

私は正しくありたいんだか、間違いたくないんだか、みんなに納得できる論理を作りたいと思う。

そう思う時点で、恥ずかしいことを言いたくない、気持ちがあって、思考停止してしまう。

異物、変人になる覚悟を引き受ける人か。



で、みんなに納得できる理屈って命令じゃね、というか、争わない理屈ってあるのか。

カシュー陛下はアシュラムに立場が違うから争うのだ、と言っていたような、思想と立場と、どっちが強いのか、ボーと考えている。

中立ということはありえなく、正しい論理がぶつかり合う、とするならば、思想でもいいような気もする。

しかし利益団体に所属するのなら立場もありかな(悩)