考えること(3)「あまのじゃく」に考える

平川克己も内田樹と同じく、するっと読める。

ふーん、あなたはそう考えたのね。

私は読むときにあんまり突込みビリティを発揮しないのである。

「生きるための重要なのは問いを立てる力」との章題にうなづく。

私は大学時代、新聞の論点だけでなく、自分で問いを立ててもいい、と開眼した。

新聞の論点にイエス、ノーで考えるのではない。江川彰子氏が上祐殿に対し、イエス・ノーで答えろ、と迫ったと聞いたような、ディベートではない在り方。割り切れなくて、よいのだな、みたいな。

で、

自分で考えるというのは、誰も考えていないことを考えるのではなく、どんな些細なことであっても、誰も考えたことのないようなやり方で考えるということなのだろうと思います。

と、ここはちょっと分からなかった。

私は、考えることは論理を作ることだ、と書いた。

起こること、起こらないことを繋げていくのが考えていくこと。(そういえば、小室直樹師匠に

論理の方法―社会科学のためのモデル

論理の方法―社会科学のためのモデル

って本があったな。読んだ覚えはあるが内容は一切覚えていないので注文した。)

やり方?やり方?ちょっと私の辞書にはない。

一つ一つの事象があって、それは新しくなく、そのつなぎ方が新しいのだってことになるな、むりやり解釈すると、でも苦しいのでこれは私のお宿題だ。

しかしそういう、ものを考えるつらさを救済してくれるのは、同じようにつらく孤独な作業をしている人間がどこかにいるということがわかるときだろうと思います。

「きみの言うことはよくわかる」「ぼくはあなたの理解者だ」という人とめぐり逢うことはもちろん大きな救いですが、それ以上に、自分と同じようにつらい孤独な作業をしてる人間がどこいるということを知れば、励みになるでしょう。

とか、うーん、この辺もよーわからへんが、と、読み始めると止まらない、平川氏である。

私は私の意見に同意を求めることはしないのだが、いつか寂しさに潰れることがあるのだろうか。

とか、あ、でたの知らなかったな。永井さんが、文庫本で、単行本を書いたら、似たようなことを考えた人がいることが分かったと書いてたような、永井先生がそうなら、うん、たぶん、私は伝わらないなりによくあることを言っていて何も変わった事は考えていないし、

というか、あーでもない、こーでもない、と書くのが好きなので。

ペトロニウスさんも、中学生の時から?日記を書き続けている、と書いていたような、書くことがつづく奴もいるってことで。

とか、読み続けると、白か黒かみたいな二項対立は、って私の考えと似たところにいるような、

とか、結局最後まで読んじゃったよ(2読目)、人間は自分のために生きることはできない、自分のために料理を作る気がしない、とか、も心に留めておこう。

復路の哲学ーーされど、語るに足る人生

復路の哲学ーーされど、語るに足る人生

で年取ってからどう思うかの本らしい。

「あんなやつ、いなくなればいい」と憎く思っているような人々に対してでも、二十年後にはもういなくなっていると思えば、少し愛おしく感じる。

みたいなことが書かれているかと思うと、買ってもいいかなっと。


平川さんは田中宇とラジオで対談していたりして、そーゆーひとでもあるんだろうし、finalventさんが読み続けるのが苦痛な人でもあるかもだけど、お年寄りの言うことはおもろいよね。

県立図書館で漁ってみようかな。