考えるということ(その3)

少し体調不良で、パソコンの発光画面を見るだけでも気分が悪くなりそうだったので、更新はなしでした。

来週半ばの更新もどうなるやろ。

という訳で、既に私の中で結論が出ていることで手抜きです。

私なりの考えるということはどういうことか。物と物の新しい関係性を見つけることだと思っています。


考えるということは物事の新しい関係性を見つけることだ(まあ、断定させてください)。

AならBと論理を見つけること。論理学ってあるしな。

AならBというのは、Aが起こったときBが起こる確率が「ある」または「高い」ことだ。

世の中というのは少しづつ変わっていくこともある。

今までなかったAならばCの現象が、起こり始め、ることもある。

その場合、経験則としては数が多くなく、見逃されやすい。

単に今まであった確率の低いことがたまたま起こったのか、これから数の多くなる現象の起こり始めなのか。

判断の根拠はない。極めて個人的な領域だ。

私もあんまりピンピンこない方なのだが、大学時代まで(病気するまで)は神がかるときもあって、

Dの現象が起こった。これは原則から言うと、ありえない。外れ値では起こらない。新しい現象の起こり始めだ、と何故か確信を持ったことがあって、それは当たったんだが、正直1回しか経験していない神がかりであった。

と、例がない領域だから、誰にも同意されないことなんでほんま狂人よのう、と、でも、物と物の新しい関係性を見つけることが考えること、だと私は思っています。(あれ、論理飛躍したような、またいつか補足します)

新しい論理を見つけるのは、新しく起こり始めることだけでなくて、今までAならBだと言われていたけど、実はDという見逃されていた要素が関係していて、それならBが起こる確率とEの起こる確率は同等もしくはEの方が確率高いんんじゃね、とか、言えたらサイコーっす。


まあ、こんな「考えごと」、担当大学教授以外と話したのは、む、そういえば最近先輩と車の中でいい雰囲気になったとき、誰にも同意されていない私の考えを話すことがあるか、会話を重ねるという感じでもないが世間話的に。

少し、幸せ、かな。