言葉の強さ

昨日の記事は、言葉について考えようとして、自分、あんまり上手く表現できて何がいいのか、いまいちよく分からなかったため、話がよそ向いて行った。

finalventさんは小林秀雄が日本語の語感(と言うかもののあわれ?)を重視していた点を重く見ていたことを知っていたので、自分なりに掘り下げようとしていたのだが、私の井戸は浅かった。

で、今日のfinalventさんのツイートを見ていて

額田王が春秋優劣判別歌を歌ったとき彼女の教養なら漢詩もできたしそもそもこの歌を漢詩に仕立てることもできたが、しなかった。それでなお漢詩を圧倒する歌であることに彼女になんの疑いもなかった。

日本語というものを自覚的に発見したのは貫之だと思う。そして貫之がそう思ったのは、人麻呂の「なびけこのやま」という響きだったろうな。修辞としては漢詩に近いが、日本語でなくして、やまをなびかせることはできない、と貫之は思っただろう。

戦後詩でもっとも優れているのは谷川俊太郎だろうとは思うが、日本語の本質的な響きの感覚で詩人たりえたのは黒田三郎松任谷由実かな。古語ではないのに日本語の核の響きと情感が整えられている。

僕はただの偶然だろうが、犬養孝の朗詠から万葉集を学んだ。あの唄いも擬古ではあるが、万葉集の歌の直感の全てを持っていた。歌はまず響きだなあ。

詩を持つ言語は強い、のか。

1980年(昭和55年)、60歳で亡くなった黒田三郎という詩人とその詩はもう忘れられることもあるが、日本の近現代の詩において二つの革命を静かに残した。一つは生活の言葉を使うこと、もう一つは市民として詩人を生きることである。それだけのことと言えば、それだけのことだ。それがなぜ革命であり、詩たりうるのか。赤裸々な「私」の言葉を見つけることは、市民社会の生の意味でもあるからだ。
https://cakes.mu/posts/9383

ケイクスの連載で、おおお、finalventさんの市民についての考察を追いかけている身としては、続きの文にドッキドキで、しかしそのあとは詩の言葉の解説であった。

確かに言葉の使い方が上手いのは認める。

私は啄木の詩を教科書で読んで、教師の解説を聞けば、面白いとは思ったが、素のまま読んでもピンとこなかった。

背景の知識がなければ訳わからないというか、それなら、説明してくれる小説のほうが好きかな、と言う感想であった。

情感をうまく汲み上げれるかどうか、それがどうして重要なのか、表現されるものがあれば、強くなるものは何なのか、明日のケイクスの更新を楽しみにって、上中後編かな。ってか、すでに分かる人は分かるだろうと解説済みの気もするけど、もちっと詳しく書かれないかなー

情感を表現できる/できないで、深化するもの/しないものって、おいら、世界の最先端的日本文化もよく分かってないしなー

やっぱり比較できるほかの言語/文化も知らないと?

明日、支店長がいなくて書類決済されないし、キリもいいしでと早めに切り上げてきて、パソコンも立ち上げないといけなかったので、何とはなしに更新したぜい。