目的は手段を正当化しない

自分の行動に(外部からの)理由を求める点と、自分がどういう人間でありたいのかという点はどっちが重いのか

と考えていて、むむ、目的の正当性と、手段の正当性を混同したらアカンか。

運転中(今日も疲れてます)あっちこっち考えていたけれど、って、まっいっけど。


脱社会的と言われると(宮台用語)、世間の価値観を無視る、ということだから、目的も手段も知ったこっちゃないかもだけど、

目的は手段を正当化するか?と考えて、会社はグレーゾーンを突くところで、綺麗事だけでは渡れない。

僕の父とか兄貴とか不器用である。私は相手をがっかりさせたくないから嘘をつく派、嘘も方便を信じているが、自身の多少の損なら被ります。

理想と現実、ではある。

現実を理想で塗りつぶしたらアカンやろうけど、どんな目標と手棚ぼたはありえず、目標を立てて試行錯誤するのはありで、私の代はダメでも、綿々と受け継がれていくものはあるか、な?ないけど。

行動に理由を求めない境地に至るには、遠い日に受け渡されたものの有無かな。

自分がどういう人間でありたいのか、野菜を食べる機会にも苦労する身には、理想と現実が重なることはありえない。

実行できないことは目標にしなくていいのか。目標の立て方が悪い。

山本七平の金にならないことを追求する、というのが忘れられない。

見栄も外聞もない目標、私だけが重要視するものを大事にするというか、

 シロエのその正しさや常識や選択によって周囲は助かりいくつかのトラブルは未然に防がれることはあった。その選択は家でも学校でも「上手く」やることを可能にしたけれど、結果シロエは深夜のアスファルトの上をどこまでも歩き続けなければならなかったし、シロエが感じているのは、つまり「あの頃」と同じ感覚なのだった。
http://ncode.syosetu.com/n8725k/91/

ログ・ホライズン,これは上手いなーと思ったので(復帰されてよかった、おもろいもの書けば、それで良し?)、論理的な正しさを追求するのが正しいとは限らない。

目標にして疲れるようなことを、目標にするのも欺瞞じゃね(とカッコつけて使ってみたが意味は無い)

疲れるのが悪いとも言えないか。壁が強大であるほど、乗り越え甲斐はある。乗り越えられないのが99.9%とは言え、って挫折だよな。

代わりになるものはないのか。多分代わりはたくさんあって、それでも追い求めることを決めたのなら、他人がどうこう言うことでもない。

死屍累々に自分が連なることは認めて、でも、それを未練がましく思いたくはない。

現実に起こることが正しく、自分の対応力が敵わなかったとしても、後ろめたくなく生きたい。

なんて今日は余り思考が広がらないな。


ちなみに今日は目をつけていた不動産が一個はけて、もう一個も商談中で少し切ないのであった。


[追記]
目的と手段が別というのは、ズラせば過程と結果のどちらを重要視する人生観か?