瀬田ソウジロウ君?の件について

ジーと考えているのである。

多分新規に何も思いつかないだろうと思うけど、まとめ。

疲れて頭が冴えまくりなので?更新してみる。


るろうに剣心の敵役の瀬田ソウジロウ君?はまだ青少年ぽい感じである。

過去に虐待された経験がある。

その時にだれにも救ってもらえなかったというか、救ってくれたのが敵役の親分だったということもある。

正義の味方の剣心に「あなたはあの時に救ってくれなかった」と錯乱して言っていたような、まあ20年前の話だからして記憶は曖昧なんだけど。

正直な話、自分の人生に起こったことを人のせいにできて、同情されるのは子供だけであって、ソウジロウ君は、ぎりぎりセーフか、アウトか。

虐待された子供が虐待する大人になるのか、よく起こるとは言われるが、虐待しない大人になる人もいるわけで、虐待の言い訳にならない。

(と言いつつ、兄貴を見ていると、理由があったら暴力を振るっていいとか思う回路が形成されちゃうとめんどくせいのだな、とは思うけど。無暴力主義を言えるところまでいかないとって思うんだけどハードルの高さは分かるけど、駄目なもんは駄目だよ。思い通りにならない者との付き合い方が甘いっ)

そこで、他人のしたことと自分のすることの関係を断ち切ろうとすることは、やっぱり宗教な人かな。

因果関係のない自分の思い込みで自分の行動を制御する。

としたときに、やっぱり優しくいられる自分を支える周りの環境はある。

マギ 20 (少年サンデーコミックス)

マギ 20 (少年サンデーコミックス)

で、子どもを殺されたおかーさんは、悪の魔導師になってしまう。

幽白で、腹立ちまぎれに壊せるものは、おもちゃだったり、家族だったり、国だったり、人それぞれ違うがお前はそれが大きいだけ、とあったような、壊すことのできるものが大きい人は大変だな、と思う。

取り返しのつかないものの大きさが違う。

ここまで来ちゃうと、なぜそれがあなたであって私でないのか、現代のヨブ記っぽいことでもある。

現実に打ちのめされることはあって、そこから立ち上がる時間を持つことができなかった。

そういう人生であったという他にない。

そこに自分の選択肢はあったのか、事実上なかったとしても、大人である限りは言い訳はきかない。

悪をなす自由はあって、愛を与える自由はないのか。

脱社会的存在は、現実の価値から遊離している点で正負は同じである。

自分の行動に(外部からの)理由を求める点と、自分がどういう人間でありたいのかという点はどっちが重いのか

って、それこそ個人の生き様なんだろうけど、軽重をつける方法はないのか、ボーと考えている。

ないんだろうけど、考えることは好きなので。

うーん、しかし、たぶん、愛を言い訳にすると虐殺もできるんだよな。ナチスの健康主義っぽく、正義の暴走的に。

マンガで自分が不利益をこうじると分かって殉じるキャラって、分からず屋で主人公の敵役に多いよね