目の付け所が異なる希少価値を身に着けるには趣味(自分の世界)を持つこと

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

例えば、しばしば語られる「自分を大切に」といった言葉の「自分」は、どこまでのことを含むのか?

またその「自分」を、どこまで大切に扱っていいのだろう?

自分対他者という図式の中では、その片方を大切にすると、残りのもう片方を大切にしきれないという状況も生じかねない。

他人の都合に合わせて自分が疲れてしまったり、自分の気持ちを大事にするあまり他人を疎かにしてしまったり。

その自分を<自分>と<自分自身>に分けて考えると、このジレンマは解消される。<自分自身>も<他者>もどちらも大切で、<自分>はその間で双方の調和や調停をとるのが仕事である、という図式になる。

自分は「自分のモノサシを持つ生き方をしたいけど、それだけでは寂しいので他人の要求に応える場も必須」と書いたんだけど、自分と他人のバランスをとるのがいいじゃね、と言った人が他にもいたのか的にチェック。

ただこう書かれると、気になるのが欲望の話である。

車はビートルがかっこえーと思うのは、自分の欲望か、その品を持つ自分をかっこよくみせたいからか。

この本にも、生理的で本能的な「欲求」と、他者への目線を通じて生まれる「欲望」の区別が出てくる。

関係ないかもしれないが、本の前の方に

悩みは、「こうありたい自分」と「そうではない現実」のギャップから生じる。

意識化されていない場合も含み、「こうありたい」というイメージが何かしらない限り、悩みは生じない。(略)

何が流行っているとか儲かるとか、このように生きるべきといった外側の指標でなく、自分の中の葛藤。

好きなことを仕事にしたら大成しないというのは、ジャッジする目が腐るからか。好きを仕事にしたら辛い、ともいうのは、自分のジャッジを忘れて他人のジャッジに合わせないといけないからか。

k.p.mだったか、他人の欲求に応えるのは楽しいとあったような気もした。

まあ、薄く広く好かれるか、狭く深く好かれるか、は永久の課題だろうが、自分の理想がどれだけ他人と違う売りになるのか。

時代の方向性と合うのか、自分なんて十派一からげならば、自分の欲求にこたえることは他人の欲求にこたえることになりそうな気もする。

他人の賞賛が欲しいのも人間だから、人の目に合わせるのも悪くない。

おいらさんは欲求と欲望を混同して使っています的に、欲望と欲求は不可分だからして、分けて考えるのは紙の上。社会分業しなければ、一人では生きていけないからして他人の目が気になるのはサガだろう。


他人が自覚しない方向性(欲求)をあぶり出して付加価値をつけるのが、仕事である。

あぶり出しの目のつけ方にセンスがあるんだろうって、人の考えの更に上をいかなくてはいけないのなら、人とは違う自分の世界を持っていないといけないわけでって経験かな。

まあ、人に認められようと思ったら、差をつけないといけないので、自分の世界もないとねっていうか、

自分のモノサシと人の欲求に応える場って、似たようなことを言う人はたくさんいる。

でも、出世しようと思ったら、能力は関係なくて出世しそうな人の下につくことって、2012年ごろに私的には大発見であったが、知って本を読むと、似たようなことはたくさん書かれてある。

百人に一人の特技(情報)を3つ持てば、百分の一の3乗は、100万分の一の稀有な人である。

情報は偏りができて、ある世界の常識を他の世界にぶつければ非常識なアイデアになる。
初めから百万に一人の逸材にならなくても、好きな趣味を持つっていうことは、仕事にも役に立つことでもありましょう。(藤原和博


日本のホワイトカラーの生産力が低いっていうのは、長時間労働で世界が一つしかないからでは、と大言壮語を吐いたところで、あんまり僕らしい結論にもならなくて自分のモノサシネタは打ち止めかな。

本当は、「今日買った本」だけでは最近妙に増えている観客に悪いと思ったので、おまけをつけるか、ぐらいで書き始めたんだけど、結局は一記事描き下ろしになってしまった。

次は七平親子の書簡の感想になるか、流れるかな。考えながら書いているので、文の流れがメタメタだが、テキトーに読み流してチョ。

自分のモノサシを持つ=自分の世界を持つ=自分の価値観を絶対視する趣味が必須となっております。