孤独と友達
うーん、結果的に友達ができたとしても、やっぱり孤独の期間はあると思うな。
友達を作ろうと思ってできるのではなく、たまたまできた、ぐらいかな。
と、ポエムを書きます。
なんツーか、人と話さないで生きてはいけないけど、他人に合わせてばかりだとツマラナイというか、
夫婦でも気兼ねなくなんてありえなく、自分の時間が欲しい。
認められるための自分の時間ではなく、好きなことを好きなだけ追求するための自分の時間というか、
やっぱり自分は友達とキャッキャウフフした思い出がないので、
他人と合わせてばかりを想像してうんざりするというか、
いや、人類のタイプなんて所詮10種類ぐらいしかないと言われて納得できてしまって、自分が特殊というわけでもないけど、
他人と繋がることを期待して、孤独をやっているわけじゃないんス。
自分は、4回ぐらいで「自分のモノサシで生きる」ことについて、だんだん考えが深まった(?)。
他人から刺激を受けなくても、自分で自分の考えに変化をつけることができるし、
まだ自分が考えていないけどボチボチ書いてみたいお題はたくさんある。
他人のお題を考えるのも楽しーんだけど、一人で黙考するのも楽しーよね。
次は脱英雄譚について、かな。
と、金魚、もしかして白点病?と恐怖におののきつつ、一人の時間の気楽さも捨てがたいという話でした。
仕事持っていたら、相手に合わす楽しさはもう十分です。
(追記)
古典的世界の人間とは、ごく簡単に言えば内面に価値と自由を持つ近代人である。どういうことかというと、世界や他者の価値観に対して、自己に依拠した価値を対峙できるということだ。そのために、教養の研鑽が問われる。
https://note.mu/finalvent/n/n4d876cc04433
finalventさんのノートである。
自己の価値観を持つってことは、教養を持つことでもあるのかな?
ちなみに、橋本治が日本は歴史があるから以前あったことも多いので、やりはじめたいことの根拠があって良い、的なことを書いていた。
私の中のパターンを増やすには、知識もいりそうだしって、
内面の価値性を見いだそうとするのに困難さがあるとすれば、自己の教養の研鑽くらいでしかない。
試行錯誤も手ではあるが、教養かあ。
なんか、世間に疑問を持ったら、どうしてそうなっているのか、原因もあるはずだし、どういう経緯でとか、どうしてその状態が認められているのか、気になるしとか、
いや、そういうことでなくて、人生をより豊かに生きるとは、
人によって求めるものが違うからおもれーのであろうが、実際におかれてみないと、おかれてみても慣れないと、慣れたら飽きるし、満たされるのも難しいものよのう。
世界に対して、自分の価値観で対峙できるか、難しく言わなくても、自分は自分と言えたらいいのであるが、自分に対して諦めがつくのは、
可能性がなくなるのに納得できるのは、なくなってからで、目があるうちは諦めがつかないだろうというか、
対峙できる価値観があるということは、価値観が対峙しているということで、対峙する状況に置かれる悲しさはある。
対峙して自分の中に信じるものはどうやって育むかであるが、さてさて(と投げる)