希望=理不尽な人生で楽しみを見つける

「農家さんからおれはお前らのように年収800万ないから頑張らなあかんのやって言われたけど、あるわけないけど特に突っ込まなかった。一生もらえる訳ないのに」

と先輩と雑談にて。秋津も就職本で業界では入社7年で年収700万いくと書かれたのを見たことあるけど、アラフォーに片足をかけて400万円の壁は厚いです。

サビ残2時間だし、とはいえ、福利厚生は厚いし、病気・定年ではない退職者が年に15人はいないだろうと思う数千人の規模である。

でもさー若者に必要なのは野望なんですよ。ブラック企業でも、知略を尽くして、経験を積み、自分の身の程が分かったら、まったりしてもいいけど、という私は、

9時まで仕事2カ月で「生きている意味って何」と言い始めるぐらいメンタルが弱いというか体力ないし、最近は転職したい、と妄想に浸っていない。

母親が、他の兄弟の状況で、お前だけがまともに就職してるんだからこれ以上心配をかけさせないで、とうるさく言われたこともあり、仕事も面白くなることもあり。

で、希望の有無を考えて、最近退職金が400万ほど永久カットされたし、先輩曰く、状況は悪くなる一方だろう、ではあるが、私は彼女との未来を想像することは許されている。

ログホラが、格差についてお題を挙げた。下の者は生活をするので汲々としている、ぽく、上の者からお金徴収を働きかけた人がいた。

生活の心配をしなくて良くなった、というのはバブル前から、それでさえ85年ごろは不況で先を心配されていた。

常に我々は先の見えない不安と共に在る、と断言するのはまずいか、宮台先生は今よりもっと生活が良くなるという子供時代を育ったらしいし。でもペトロニウスさんは核戦争を心配していたと書いていたけど。

希望はこれから先良くなるという見通しなのか、先の見通しが聞く、人生設計ができるということなのか、人生設計ができないことは不安だということで、不安がない人生がありふれているかと言われたらそうでもなく、生活に追われないで済むのも一握りだろう。

私は高校時代に家の通帳を見たが、給料日前は赤くなっていた。

生活に汲々としないでも済むのは理想である、理想がなくては生きていけない。

格差が悪いものなのか。いい大学に行くと、給料1.2倍、労働時間1.6倍と書かれたツイートを見た気がして、東京人は労働時間が長い。

自分の望むものと自分が捧げる者のバーターは、等価交換が見えていたら納得するか、人との差がないようなのに、生活の差が有ればひっくり返したくもなる。


なんか詰まったので話題を変えるが、ログホラでトウヤ少年はリアルでは交通事故で足が動かなくなっている。

一方で、ゲーム世界(と言い難くもなって来たが)へ飛ばされて、世界になじめず現地人に構わず迷惑をまき散らす人もいる。

理不尽はどこにでも転がっていて、多分にゃん太の言うように、それを受容できるか否かは偶然に過ぎない。

私の病気なんかもそうであるが、理不尽を受容するしかないのはあって、でも、受容できない自由はあり、受容できず努力するから人類は発展した。
理不尽な人生で、でも数が多いというのはシステムの欠陥ではあり、私は人の職を作る仕事がしたいのであるが、希望がないという中で前向きに生きることはできないのか。

不安はある、だけど前向きに生きることができる、という条件になるには何があるのか。

前向きになるのは希望があるってことで、不安<希望の状態かな?

八方ふさがりで、何に希望を託すのか。

自分ではない、子どもたちの未来をか。

支えてくれる人がいるか、って「青空人生相談所」で人を支える底力はなかなか得難いものであるようであった。

期待すれば裏切られる、しかし、期待して努力もしないと状況は変わらない。動機付けはどこで調達されるのか。

何か行動すること、なぜ行動するのか、行動して変化があると思っているから。変化があるとなぜ期待できるのか。過去の経験則か、無駄な努力でも楽しいからか。

楽しい努力とは何だろう。過程を楽しめること。人生は過程に過ぎない。希望がないってことは人生を楽しめ(る余裕が)ないってこと?人生の楽しみがないってのも怖いが、さてさて