生きる指針
[追記]あり
では、この死ぬまでの時は、何のためにあるのか? それは、幸せになるため。人生は、それを使って幸せになるためにある。
うーみゅ、人によって幸せの形は違うとして、幸せに生きる選択ができるのも贅沢なような、少し考えてみる。
また、幸せになるという選択肢があるには幸せにならない選択というのがあるから際立つ、んでもって幸せになると思った選択肢ばかりを選んだ合理的な人生が楽しいか?
目標を定める生き方をどう思うか。
の続きは、適当に書いてしまったのでもう一度考えてみる。
あんまり新規性のあることに辿り着かない予定である。
○幸せに生きる選択肢ができるのか
本当に追い詰められたら、悩んでいる暇なんてない、という。
しかしだな、某君がもう少しで非常勤の期限が切れるのに、全く動こうとしないのである。
落ち続けることが分かっているので?とか、今まで特に動かなくてもパラサイトでもなんとかなっているから、とか思うんだが、
本人がちらっと怖い、的なことを言っていた。現実逃避か?
内発性云々は関心がある。finalventさんは無気力を学習する論文はあるように書いていて、
指示待ち社員をなくすには、良いことをしたら誉めるとか給与をあげることとしたら、動いても結果が変わらなければ動かなくなる、のかなあ?
私は会社は今の会社しか受けていないが、ユニクロのバイトに応募しようと電話かけたら、それだけで拒否られたのがいまだに忘れることができない(年末だったけど)
選択して状況が変わる、というのも贅沢な悩みな気がする。
普通は小説のように一発逆転はない。
まあ私は無気力を学習していないので突撃するわけだが。(オタクの無駄な行動力)
○目標を定める生き方をどう思うか
目標を定めるといっても、ついつい目の前の欲望に負けてしまうのが人間であるし、
目標を曲げずに生きられるかというとそれも無理である。
しかし、キャリアコースは偶然に翻弄されつつ、自分なりにイメージを持っておくといいことがある、だったっけな、
緩やかな理想をもっていないと、ただ流されるだけの人生である。
しかし自分にどうもできない運命があるとして、その運命が自分にとって肯定できるものか否定できるものかは
どうでもできないのだからして、自分の行動とは無関係で、自分の思っていたことよりい良いこともあれば悪いこともある。
選択の意味はない。し、禍福はあざなえる縄の如しで一時の良い点もどう転ぶか分からない不可知の点からも選択の意味はない。
ただ、自分で決めたと思わないと、責任を持てないというか、踏ん張りが効かないか。(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20141228/p3)
予想したことが外れ/当たり、一喜一憂して楽しいかもしれぬし、自分の生き様として選択したほうが自分の人生を生きている感はあるかもしれぬ。
そしてfinalventさんのいう生きる意味は、死ぬより重要視する目標があることのようなのだが、
自分を損ねない生き方について、頭の隅に置いてある。生き様。
人を魅せる生き様。
(私には無理だな。泥にまみれる)
どうせ人生が納得できないのあれば、嫌になることも自分で背負いこんだことが多ければ諦めがつくか。
聖霊が代わりに立ってくれる生き様、自分に嘘をつかない生き方、自分で自分を信頼できる ということはどういうことなのだろうか。
心安らかであること。自分を肯定できること。やましくないこと。
それは、流されるだけで達成できることではなく、あらかじめ目標として定めていないと無理というか、目標として定めても欺瞞が生じやすそうにも思うが、
人生、踏み絵を迫られる時に間違わないように、頭の片隅に置いておきたい、かな。
私は人生、幸せに生きるため、とは言えないかな。
もう一つ、本書が陥っている罠が、選択バイアスだ。生きがいの例として、使命感や責任感、充実感や創造性、「生かされている」実感など、プラスの感情を掲げる一方で、負の感情は二次的なものにすぎないと下す。すなわち、破壊的な熱情、憎悪、怒り、復讐、嫉妬は、生きるはりあいにはなるものの、「生きがい」のテーマからは外される。
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2014/08/post-e7e5.html
生きがいが負の物になることがあるというのならば、人生、傍から見て不幸せでも、自分に納得のある生き方がしたい(って甲斐のことかな)
[追記]
甲斐を追い求めるってことは、「自分らしく生きる」ってことか。
自分のモノサシで生きる。
こう書くと、遠回りしてありきたりになったな。
未だに押し付けがましい感じがするのは、やっぱりみんなそれなりに葛藤はあるんだろう。