タコツボ

ひとつ前の記事の

「学問」というのはこの場合、大学で欧米での学会、みたいのを指す。

小室直樹が言っていたような(?)

で、そこで流通する物でない紛い物を信じて、というか、

偽物を信じる、それが悪いことなのかにゃーと考えたので、綴ってみる。

ネットを見れば、いろんな情報があります。

Cという結果になったのは、Aが原因派とBが原因派があったりして、部外者にはとんとどちらが正しいのかわからない。

マイナスイオンが嘘事だっていうのも、権威があると信じる方がそういっているからであって、理解したからではない。

理解したってゆーのは、自分が同じものを組み立てれたり、より強力にしたり弱めたりできたりすることを言うとしたら。

で、いろんな情報があって、ツイッターとかでは自分に心地よい空間を作っているわけです。

マイナスイオン万歳派かもしれないし、アホじゃね派かもしれない。

しかしその2つが混じり合うことは殆どない。たまに視野に入ってウゲロとか思っている。

レイヤー化する社会というか、蛸壺かというか、島宇宙というか、たぶん正しい用語の使い方ではないけど、

自分に心地よい集団があって、そいつに所属している。それは肯定されるべきことなのか?

で、finalventさん、また全文引用ごめんなさい。しかし渾身の力で書かれているので、取り出すと意味が通じなくなるというか、恣意的になってしまって本意が取れなくなる(というか私の以下の感想では取れていないが)。

私が言うと誤解されるんだろうけど(リライト版)

 最初の版では、私ことfinalventの立ち位置(アルファーブロガーと言われることがある)から読まれると誤解されるだろうと懸念したことと、具体的な著作家やブロガーを指示したこともあり、私としてはそういう含意も内意はなかったのだが、ご不快に思われたかたもあったようだった。ブログは書き方を注意しないといけないものだなと反省する機会にもなった。以下、具体的な著作家やブロガーを指示しない形で、内容点だけ構成しなおしてリライトしてみた。

 -----------------

 ブログユーザーが現状どの程度広がっているかについては統計的には知らないが、はてなダイアリーが始まり、アルファーブロガー企画などがあった4年前から比べれば、大きな変化を遂げた。そこで原型的ともいえる4年前のブログの世界だが、さらにその先駆型となるMTなどの技術への関心の話題やfj的な技術系を引いた話題のブログがあり、それに傍系としてアルファーブロガー企画のころの文系的な、いわゆるブログ論壇的的な傾向が現れた矢先だった。

 文系的なブログの世界が、この間の小泉政治への賛否を巻き込むかたちで政治的な言論のツールになったり、文化戦争的な様相も示した。

 ブログの小さな世界は当時2ちゃんねるとも対比された(今でも対比されうる)。2ちゃんねるが新しい世代の愛国主義的な傾向を持ちながらも、基本的に匿名であることや掲示板という、まとまった言説の単位を持たないことからモブ的な傾向を併せ持っていたことに対して、ブログ論壇的的な世界は、一方でモブ的な傾向から距離を置き、より欧米リベラル的な発言、旧来からの左翼ジャーナリズム的な発言、愛国主義的な傾向の発言などがあった。同時に技術系のブログも広がっていた。これら1年から2年くらいあるブログシーンを形成していた。

 しかし、その後、ブログの世界は、マス的な拡大が起きた。このため、当初のコア的なブログシーンの世界は、むしろブログの世界全体からは辺境的な位置付けを持つようになった。この部分の現在的な継承は、はてなブックマークの20ブックマーク程度のエントリに見られる。基本的に、現状ではこうした部分のブログシーンは、マス的な共同体的なゆるい関係性を持たせるべく設計されたはてなが独自に保持・発展してきた(が、はてなもまたさらにマス的なブログの世界へのある種の乗り遅れのようなものがあり、Twitter的なマスの拡大世界から取り残されつつある)。

 現在に至るブログシーンだが、コアのあるいはプリミティブなブログシーン(はてな的なブロガー)は、別の2極の影響を受けるようになった。よりマス=大衆的な動向、と、イスタブリッシュな知性の動向である(もちろん、これもはてなに包括されうるとも考えられるが)。

 マス側の極では、そのなかに近未来の消費市場に形成すべくテレビ的な話題形成の操作が実質介入されるようになった。有名人ブログや各種のブログイベント、その他マーケッティングが適用されるようになった。もっとも、この側面での実際のブログシーンでは、テレビ的な世界から半落ちしたあるいはややマイナーな有名人の緩いファンコミュニティ化がむしろ積極的に進行しつつある。

 イスタブリッシュな知性の極では、この数年来の新書ブームを支えるような知識人がブログシーンに登場するようになった。彼らにとってブログは、メインの知性販売の市場との対比において位置づけらるものであって、無料の文章はそのサポート的な意味合いをもっていた。当然、ブログのなかに金銭的な価値のある知識が十分に流れることはあまりない。

 ここでブログは当然多様に見えるようになる。マス的な部分についていえば、マーケティングな統計的な手法で分析可能だ。さらに、一部のブロガーを使って扇動的に消費傾向を巻き込むようにも企画されつつある。

 他方、イスタブリッシュな知性からすれば、マス的な世界は当然として、コアのあるいはプリミティブなブログシーン(はてな的なブロガー)も、知性的に劣る部分、あるいは啓蒙の対象くらいにしか見えない。新書など啓蒙書のマーケット対象となりうる(そうした書評エントリが実際に受けている)。ブログなどくだらないというのは、知的な水準で見ればそのとおりでもあるだろう。

 ここでこれらのイスタブリッシュな知性の素性を顧みるのだが、日本の言論の構図では常にいくつかの派閥的なジャーナリズムや出版界に事実上従属していた。知識人は、ジャーナリズムの限界やそれを越える知識を持ちながら、ある種のコードを出ない。また、そのコードが事実上、金銭的な知識のマーケットを意味していた。

 これに対して、プリミティブなブログシーンは、しだいにそうした枠組みを自然に超えつつある。マスの動向やマス操作的な情報にも自然に警戒的だし、知性に対しても、それが知的であるとされる既存社会コードから、より身近な問題について真摯に対応しつつある。理由は、彼らが毎日ブログをしているからだ。ブロガーは、コメント欄やトラバ、SBMなどの明示的なコミュニケーション関係よりも、各種の小さな島のような各種のブロガーが発する話題・関心の流れのなかで、常に小さな自己が表出的に問われるように思考している。その結果としての表出は知的ではないかもしえれないが、アクチュアルであるし、この過程から見てもわかるように共同体志向的である(この共同体的性質はおそらくある種のセンスあるいはリテラシーとして結実しつつある)。

 そして、そのようなブログシーンに人が存在する条件は、単純に、毎日と限らなくても、ほぼ毎日ブログしていることである。そうではないマスや知識人は、日々のブログの流れが読めない。だが、ブログの流れが読めない人がブログをマスや知識人市場で語ることが多く、それはブログの内側の感覚からは異和感のようにしか受け取れない。

 ブログのなかで生きている……それはネットの中に生きているというのではない……という感覚が一定数産まれるなかで、それが非知的に見えても、具体的な生活に根ざした思想という点でもっとも本来的な思想活動になりうる。思想とは現実の「私」の生きがたさからしか発しないし、それを発して受け取る人の運動(「私」を具体的に越えていくこと)のなかでしか生き生きと現れえない。

 むしろ知的とされている世界の側は、戦後の歴史を見てもわかるように、時代が過ぎ去れば跡形もないか、あるいは特定のイデオロギーから党派的にまとめられているにすぎない。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070629/1183108259

ちなみに、知識人とは

もっと端的にいえば、対価を得るような形で自分の知識を問うという、まっとうな関係性に立ったことがないし、おそらく立つこともなく、立てることもないだろう。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070630/1183153891

知識人とは知識を売ることだからして、需要のあることしか書かないんだよん、かな。

自分の関心のあることを突き止めるパンピーと、私は受け取った。

(共同体志向、の部分が良く飲みこめていないけど)

明治時代の新聞記者が世間から忌避されるものだったのから、

山本七平が大正時代とか(?)(新聞のこととは別の意味が流通する)知恵ある庶民と書いていたような、

戦後、読売新聞が1000万部売れたとか、

そこから、またネットで好きに戯れているとか

一億総中流で「主流の言論(論壇)」(バーン!)ったゆーのが無くなりつつあるのが、今だと思うんだが(ここは断言してもいいかな)

自分の関心のある範囲で、自分の関心事を深める。

他人にお題を与えられるんじゃなく、とゆーのは市民の生きかたなのかなぁ


ちなみに、また少しお客が増えたので、でも、こんな零細ブログまでチェックできる人はよっぽど変わっているというか、

うちのお客さんは、他の人と会話できるのだろうか、と思うわけです。

私は好き勝手な本を読んでいるというか、偏ったネットをしているので、情報源が他の人と違って、真面目な話をしていると、最初の一発は、聞き返されます。

ペトロニウスさんが会話するときは背景を理解してもらうことが大切と書いていましたが(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130907/p1)。

まあ結構、隣の人が何を考えているのが分からないというのが産業革命以後というか、アメリカなのか、

アメリカは星条旗、フランスは言語、(?)、

何をもって日本はばらばらな人を一つの国家にするのか、様子見中である。

幸せとは何か、資源が限られるのなら、幸せを狭い範囲で定めてそこに集中投資するしかないんだろうけど。


[追記]
多様性を抑圧せず、誰もが文句言わないのは、天皇なのかな?

でも途絶えそーなんですけど

ってゆうか宮台真司は方向転換したんだけど

(島宇宙を言い出した人は10年早いっすよ〜)


[追記の追記]
宮台先生、やっぱり面白いわー「こうした全体を意識した上で、他人の「ごっこ」を妨害しない、「ごっこ」として自覚されたアイデンティティだけ許容できる。人でも国でも同じ。」とか(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1049

最近読みこんでなかったというか、読んでなかったけど


[追記×3]

ちなみに、finalventさんの記事は2007年のものである。

最近ははてなにいるのも惰性発言もあったし、また違う所感だと思います。