教養としての大学受験国語

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

もっと早めに読んでおけばよかった。確か出版されたときにすこし話題になった本だっと思う。

それは信じていないのではなくて、たんに自分が何を信じているかを知らないだけではないか。

その上で、様々な「オプション」に身を任せられればなおいいが、ただ身を任せるのではなく、自分がどの「オプション」を選んでいるのかが自分でできれば、それはものすごく知的な営みである。

受験国語には知の状況の先端の情報が出される。

出版された10年前現在の受験国語をネタに、思想状況のキーワードをあぶり出す。

ペトロニウスさんが受験国語は全て背後に○○と言う問題が隠れていて、それに沿った答えを見つけ出していて満点を取っていたという、アレですな。

「知の技法」入門

「知の技法」入門

でも、思想史がまとめられていて、こっちは現在だけでなく過去からの実存主義とかの流れも踏まれて書かれていて、

でも、最先端がポンティの身体論を注目しているように書かれていたのは、他の視点からはポンティはここに収録されていたのか、的、相補的に読めて、(もう一回読み直そう)

実は、僕たちは何も他人とまったく違う人間になりたいわけではない。多くの共通点を持ちながら、どこか誇れるところだけ他人と違えばそれでいいのだ。

個性的な人間の悲哀は

いま私たちが考えるべきこと

いま私たちが考えるべきこと

に書かれていて、これはさすがに新しい感じはしないけど、現在進行的に私の問題である。

はぁ、やっぱり形式的に他人に合わせないと、一事が万事に見られて、みよよ〜ん。


インターネットの普及によって起こる事態を

新しい事態をこういう否定的な言葉で語る限り、新しい感性は生まれない。ここで語っているのは古い感性だ。

新しい事態を肯定的な言葉で語ることができてはじめて感性の変革と言えるのである。

ネット上で生まれてから当たり前のようにインターネットがあった世代のことが言われている。

その前提の違いを「古い」と一喝されると、私の中の辞書に概念が一語増えた。

この本では他にも郊外のこととかが、若い学生から新しい感性の表出を求めている。

わたしゃもう若くはない。

ベントさんが、ネットは30代以降の物と書いていたようなワンオブゼムでしかないわけだが、

全体からしたらワンであっても、私の主観からしたら絶対的な一でしかなく、

主観で生きているからして説得力を増す材料として客観を学んでいる最中なのであった。

宮台真司浅羽通明を評して、勉強しているから思想の行き止まりが見えていると言ったような、

思想史をかじってみたいというか、そういう意味でこの本も勉強になったし

仲正さんの積読中の本も読んでみたいのであった。