池上彰の教養のススメ

日本人は宗教や思想を薬とするのならば、その何が問題なのか?

現実に役に立つのではいいのではないか?

現実、というか今の役にしかなっていないとすれば、射程狭すぎね?

イスラーム文化を読んでみようかと思ったら思ったところになかったので、新しいの買うしかない図書館か。)

では時間の要素を入れてみるとなると、あらゆる時間で共通の「良い」思想とはあるのか。

共通して、とはならないかもしれないが、踏まえてく前提はあるのではないか?

と、何のことを言っているのかというと、池上彰はありえない中立という思想を体現しているようで、胡散臭さを感じたのであるが、池上彰は「すぐに役に立つ知識」を批判する。

ブータンのような国民総幸福」を定義するとすれば、どんな要素を作るべきか」

人の幸福はそれぞれだけど、年収800万を超えると幸福度数は上がらない。他人と比較する幸福ではなくて、自分の幸福の基準とはなにか。

多様な選択肢があることをどう表現するか、自分が理解できない多様さを批判しない世の中とは(時間稼ぎですよ)

答えは「そもそも問いが間違っている。幸福という主観を客観的な数字で表すことは出来ない。問いのポイントは与えられた課題そのものがおかしい、と前提条件に疑問を持てるかどうか、そしてどこがおかしいのか自分なりの論理で説明できるかどうか、です。

時には問いそのものが間違っていることがある―。

にょろろ?思っていたより、柔軟ぽいな、押し付けがましくない。


というわけで、昨日ヘロっていたので、読書感想でも書くのかと思ったのだが、やっぱりヘロって居るな。なぜヘロるのが恥ずかしいのか、ひと記事書こうかと思わないでもない、頭の悪い文学青年だからですよーま、いいけど。

昨日の続きで言うと、

本川 究極の科学と、宗教は似ている側面があるんですよ。

池上 といいますと?

本川 小学校までの理科は、目で見て触って分かる学問です。「菜の花の花びらは4枚ですね」という具合に。それが中学校の理科になると、目に見えない分子や原子や重力という「概念」を使うと全部共通の原理で理解できる、と教える。

目で見えない、手で触れない、抽象的な学問になってくる。分子なんて中学生には、あるかどうか自分でわかりませんよね。でも、「偉い人があると言っているのだから、自分の目で見て確かめられなくても、正しいものだと信じなさい」と教室で教える。宗教とそっくりです。(略)

「自分の目で確かめられないものなど、簡単に信じてたまるか、そんなもの適当にあしらっておけ」という真っ当だけれど可愛げのない生徒は、文系の道を選んじゃう。一方、目のきらきらした素直でだまされやすい人間が、分子や普遍的な原理や数式を信じて良い点数をとり、そのまま理系の道へ突き進む。

高度に発達した科学は魔術と変わらない、だったけ?ですね。

ファインマンが、理屈だけ教えても、この理屈が砂糖を叩くと青く発光する(適当)ことだとわかっていないのを危惧していたような。

池上 東工大生に代表される理系の学生は、授業で教わる内容そのものに「価値」を求めていない。ひたすら理論と事実とを学べばいいと信じている。

あーおいらこっちですね。ノンフィクションラブで、この世に有りうる可能性をすべて頭のなかに入れたいと思う。

本川 「なぜ」と意味を問うとそれだけで違和感を持ってしまう。そんなの科学じゃない、と思ってしまう。(略)

事実と事実に基づいた理論以外書いてはいけない。

本川 でも、テストで計れるのは過去の知識の量にすぎない。未来への創造につながる創意や工夫は計ることができないんです。

一応、自分は未来でも通じる理論を探しているのであるが、未来における再現性のないことには興味が無いというか、なぜかと問う力が弱いんだよね、自分。

教えられたことをそのまま鵜呑みにして、その場面で通じて、あの場面で通じないことがわからないというか、なぜそうなるのか分かっていないと応用が効かないのである。

論語とか、意味もわからず小さい時覚えていると、その後役に立つとは言うし、最低限の理屈は暗記だろうけど、妥当でその無限の組み合わせの発想力を身につけるにはやっぱりなぜかが分かっていないと。

あと面白かったのが

現在の豊かさとは、物の量が多い豊かさです。でもこれからは量を増やすわけには行きません。そこで、量はそれほどなくても、質の違うものがいろいろあるところに豊かさを感じられるようになれば、みじめだと思わずに済むでしょう。

可能性の問題として、心に刻んでおきます。

で、この本は、14年3月に書かれた本か。

すぐ使える知識はすぐ陳腐化するので教養大事、は「考える生き方」を思い出して、なんとなく奥付を確認してしまった。

(追記)

考えるに、主観的な幸福は問いが間違いだと言われて、すぐ納得するようなら、それも先生の答えを鵜呑することになって、自分なりにもう一度演算しなおして納得するかどうか決めないとね。

主観的な幸せを追求しやすい世の中としにくい世の中はあるだろうし、そこを突き止められないかな?

というか、ない、と断言してしまうところに危うさがあるかも。自分が間違っている可能性を考えていない。