パウロとかヨセフスとか
- 作者: 山本七平
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2001/04
- メディア: 文庫
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パウロの話をブログに書こうかと思ったけど、うざそうなのでやめた。簡単にいうと、パウロという人は、キリストを信じる気持ちなんかこれっぽちもないどころか、使徒を喜々として迫害していた人だった。彼が回心したのは神のご都合から。
パウロは、神が諸国民のためにユダヤ人民族の心をあえて頑なにしたと言ってる。まさにパウロがユダヤ人である骨頂。内村鑑三は、「私は日本のためにいるが日本は神のためにある」とした。まさに内村は日本人。
パウロという人はエリートでインテリで正義心をもってイエスに従った人を迫害し殺人した。神様は恩寵をもって、そのすべてを砕いた。彼は見捨てられ愚かな人となりイエスに従がう人になった。
人生は旅、という言葉があるけど、運命に引き回されるという感じもあり、アブラハムやモーセ、パウロなど神に引き回された人のことを思う。神がいるかいないかという議論はどうでもいいけど、引き回わされて今ある自分というののなかに、何か意味のようなものは考えざるをえない。何もないとしても。
そしてわけわかんないのがパウロ。彼は生前のイエスの情報をほぼ得ていない。ただ、復活というキーワードから奇妙な神学を形成して、原始教団にすり寄った。
一昨日の倫理の解体と結びつかない。回心する程度の倫理?神が一発どやして示す倫理?finalventさんの死についての本に期待するということで。
小室直樹が解説したら面白そうな話題のように思いつつ。
ついでにヨセフスを検索すると
山本少尉は敵探索を部下に委ねて結果彼だけが生き残った。自分が死んだ方がましだったと思って生き続け、ヨセフス古典の出版屋になった。自分をヨセフスに見ていた。
私の知識では、ヨセフスが仲間を殺されてもローマにすり寄って裏切り者だけど、その当時のユダヤ人が分かる貴重な本を残した、ってことか。
倫理で言えば、自分がただ石を投げられているだけなのか、後世に繋がるのか、その確信は何かと問いたく思う。
おまけ:
山本七平はカルトと言われるような集団へもキリスト教について説きに行った。まあ、それを政治利用される懸念もあるから一概には言えないけど、彼は、そういう人たちにこそキリストを伝えることが自分の使命だとしていた。イエスキリストも当時は最も迫害された人の中に入って行って福音を説いた。
善悪・正義ではない、性愛のあわれさに向き合う情感から倫理を組換えた本居宣長に小林秀雄は、未来の指標を置いた。
あわれさの情感か。言葉の語感、私は持ってないので辛いところでもあるんだけど。
「finaventのどこがいいの?」と兄貴に問われたことがある。
「ふつーのおっさんだよ」
「普通のおっさんのどこがいいんだよ」
(挫折をうちに秘して、それでも市井に生きる誇りを持っているところかな。
たぶん、家のおとーやんもそれなりにあると思うけど的ふつー)