欺瞞

昨日、書いた
「厚みを持った人生は、谷の期間にどれだけ意志を曲げずに成し遂げたかのような気もするのだが、生活と絡まないかな。」

の件は、なんか欺瞞のにおいがする。

欺瞞とはfinalventさんのキーワードだったりするのだが、秋津君的にはあまり考察を深められていない言葉である。

手段と目的を混同せずに、一本の筋を貫くには?

なんとなく映画の「ノア」を思い出しちゃったんだが。

ノアが邪悪な人間は絶えるつもりでいたのに、息子に子供ができて、結局殺せなかったっぽく。


(追記)

小林秀雄は「信じること」を信仰としたのではなく、私たちの経験に現れてくる倫理的な枠組みの強固さを語った。

人間の経験が倫理的な枠組みをもつことの奇怪さ。一見すると経験が倫理性を志向するなら普遍倫理が現れそうにも思える。そしてそうであれば究極的な倫理が出現しそうに思える。小林秀雄が最後にしたにのはその解体だった。これは「死の合理性」の解体でもあった。死はそれに接し哀しむものでしかない。

私の文章と関係するか分からないけど、今日のfinalventさんのツイートである。

「死の合理性の解体」「死はそれに接し悲しむものでしかない」「究極的な倫理の解体」

究極的な倫理とは、生きる価値そのものであると思えるし、そこに死を持ち出されるとおもろげな理屈がありそうである。

生きる価値の解体は死は哀しむだけのもの?

小林秀雄、読んでみたいかな。

finalventさんいわく、小林は輪廻転生を信じていた(のは三島由紀夫だったけ?)

トラやん、毎朝読もうとしたけど、結局、読まずにネットしているし…

ちなみに洗濯する日は朝が遅くなります。

ああ、ちょっと放言的にいうと、小林は、歴史の必然性・悲劇性が終末論的な構造(つまりキリスト教)的な超越の構造を持つのはなぜか、それを人の生活・言語活動がどのようにそこの必然的に流れ込むのかという問いを持っていた。そして、その問いの最後のぎりぎりのところで、言葉が生み出す歴史の必然性のなかで、最後に個を、その死の隔絶性よって救い出すところにある。つまり、個の死の絶対性という悲劇性のなかで、すべての予定調和的な神学を拒絶しながら倫理を打ち立てようとしたところにある。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20070414/1176542261

トラやんの知識もなければ、小林も相対化できそうにないかも

しかし、生きる価値を追求しようとして、小林秀雄か。ずいぶん遠くまで