多の中の一である安心感

日々を生きるのに精いっぱいな人は何を希望にするのか。

次の世代に期待する。

すなわち、自分も過去の世代から期待されていたということであり、過去と未来をつなぐ点であることを自覚すること?

ヒカルの碁 23 (ジャンプコミックス)

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大きな流れの一点であること、と、この根拠は説明しなくても自分の中にありますよね?

しかも、もっとよいことには、以前は欧米に特有の現象だと考えられていた中年の倦怠期は、じつは世界的なものだったのだ。

世界中の人々が悲惨な四十代を迎える、という事実に慰められるというのも、じつにおかしな話だが、善人を自称する私でさえ、悲惨なのは自分一人じゃないと知ってほっとしたのである。

ベテラン営業マンの仕事術

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一人であることは孤独で、他にも大勢、似た人がいると慰められるものである。

で、自分が大多数の一部であることを知ることは

  1. 所属する大多数を愛せ?
  2. 神を感じるか?

という点が考えられた。

まず、思ったのは、大いなるものとの一体化は、宮台真司よしりんの秘書に対して下駄をはいたから下駄を愛すのか?という問題である。

ってか、ナショナリズムかな?

宮台先生は感情の発露をただするのは阿呆とか、結果を想定して表現を変えるとか書いていた(書いてないけど)。

ネトウヨ的なものに対して否定的だったんだけど、あれ、単に人を動かした経験がない、動かせる立場でない人の居場所なんじゃね?

大学に入って、革マルか民青か統一教会か、初めに誘われたところで決まる、みたく。

自分が大きな流れの中で生きることを知ることと、大きな物語との一体化は違うのかな?

大きな流れで生きることを知ることは、自分は貧乏くじ引く覚悟をすることです、私にとっては。

顧みられることのない生を肯定することであるけど、その辺、まだ考え始めたばかりだからよく分からない。

江戸時代の藩制度から、日本国民の自覚を植え始めるのに、小学校を使ったのか?

過去、自分の集団は小さかっただろう。

でも、自分と一体化する所属団体の大きさで好悪が決められるというより

素朴なナショナリストは嫌われるが、賢く立ち回るナショナリストはそんなもんでしょ。


神を感じるか、というのは、いや、根拠のない、理屈でない考えを持ったものだから、理屈でない神様を持ち出す場面であるかもしれない、とふと思っただけなんだけど。

他の誰からも肯定されなかったとき、流れの中で打ち捨てられる自分を自覚した時、そこに無意味を感じるならば、大いなるものからの肯定を必要とする人もいるのではないか。

私は捨石なら捨石でいーじゃんと思うが、捨石という言葉に価値があるかな、意味の無さに耐えられる人は、どのぐらいいるのだろう。

例えば、眼前に置かれたコーヒーカップをコーヒーカップだと認識し、それを「コーヒーカップ」という言葉で呼ぶことは難しいことではない。(略)

経験とは人生の意味に集約されるものなのである。ソクラテスが哲学の意味を簡素に「よく生きること」としたように、生きる意味とはまさに「経験」と同義である。また、「愛」は、愛を実践した人の生涯をなくしては意味をなしえない。
https://cakes.mu/posts/7477

この文を読むと、私は名も無き市民として欲なく生きることに意味を見いだしているのか、と思って、意味なしの人生に耐えれないかな。


で、アイデンティティなのである。名も無き市民として生きるのに、アイデンティティは正直なことである。

私が選択しなかった過去はどれほどの意味があるのか?

慶応大学で人工授精で生まれた子の気持ちがよく分からないので、少し考えてみる。

日本人であることは選べなかったのであるし。

でも正直であることは、内村鑑三の否定するところの「である」ことに重きを置いているな。

正直者「になる」生き方でもあるのだが

そういえば、finalventの日記で

•正直者がバカを見ないかもしれないなと思えるのは、50歳くらいからではないか。ひと昔前みたいに子どもが40代で成人しているとやや前倒しというか。ようするに正直者というのは人の生き方であって、人が人に連なる生き方の問題。つまり、バカを見ない人は自分自身だけがバカをみないと思っているだけのことであって、人なんてものは、人の交わり、連なりのなかに消えていくものなので、その消え方の最適戦略として、弱者でもそれなりに取れるのが正直者ということ。

•正直者というのは、続けていくと、自分への確信が年率0.01%くらいつく。もうちょっというとたとえば、いかなるときでも私はその点では卑怯なことはしないよというのがあれば、その点から卑怯な攻撃を受けたときに自分を越えた強さが現れる。これは自分としては聖書というかパウロから学んだ。自分が弱いとき聖霊が代わりにそこに立つのだから安心しなさいと。また弱さであってあなたへの恵みはもう十分なのですよ、と。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20090309/1236558698

私は年率0.01%を真に受けて、生きていくからなっ(こういうのを口伝というのか)

正直「である」生き方の強さについてぼそぼそ考えようっと