原則を持つこと
現在、広く流通する価値観で判断する、それは当然のことのようで、日本人とユダヤ人を読んだらそうでもなかったような気もする、(忘れている、読みなおそう)
戦争のとき徴兵拒否をしたのはものみの塔だけだったっけ?
何事が起ころうともこれだけは譲れない原則をもっていないと、かえって外国人と意志疎通ができにくい
(って眉に唾付けるけど)
一つのモノサシで人生の豊かさをはかろうとするのなら、原則を打ち立てているか否か、のような気がした。
私にとっては、正直であることだし、
サーフィンをするためにすべてを犠牲にすることかもしれないし、
何を置いても家族を大事にすることかもしれない。
でもこれだと原則ではなく、人生の優先順位を付けるってことになるな。
不利益をこうむっても優先する理念って言ったら、銀英伝の「主義主張は生きるための方便」って言葉が点滅するんだけど、
人間は生きていなければ意味がないわけだけど、どうせ死ぬのは既定路線だし、意味を持てる人生にするのならばってこれは秋津が60になってからのほうが考える課題だけど、
60になってからは60になってからのことで、60になるまでの優先順位を今決めてもいいだろう。
人生の価値か、尊厳を持つということはどういうことか。
死を前に嘆くのも人間らしいが、泰然としていたいのか。
泰然とすることは足ることを知っているのかもしれない。
後悔のない人生、納得できる人生、となると、「であった」人生の結果というより「した」人生で過程をどう生きたか、だな。
結局、自分でした選択に満足しているのか。
厚みを持った人生は、谷の期間にどれだけ意志を曲げずに成し遂げたかのような気もするのだが、生活と絡まないかな。
価値を持つ、尊厳を持った生き方に詰まったので、方向を変える。
人生の選択を自分でできたらいいけど、生まれもって生き方が決められていたら、どうなのだろう。
財閥の跡取りとか、多の中の一ではなく、他に代えのない人間である。
意志を曲げなければいけないことも多そうだし、まあ、近づかないが無難であるのだが、渦中の人がそれでも尊厳を持つ方法とは何だろう?
この辺、尊厳を持った生き方がどんなものか、小説を読んでいないので想像力が膨らまないのね、