生活の場があること

アイデンティティは金持ちの道楽ではないか、と朝は結論付けた。

強引だなと自分でも思わないでもない。

漫画だと、「マギ」がこの辺の故郷喪失を描けるかどうか少し注目している。

アリババ(だったか名前忘れた貴種漂流譚の人)はわりかしあっさり故郷を離れているのだが、周辺人物に国にこだわる人が多そうだし、自治を放棄した騎馬民族の子がどう愛国心を表現するのか次の登場が待たれる。

まあもっとも彼らは自分がいかに恵まれているかに無自覚だったわけではないが。

私は少数派に属する経験がないので、アイデンティティの喪失にあまり想像力が働いていない。

あなたが私に渡した箱の中身はあなたの中身で、二度と戻ってこないと言われても、それでも考える自分はあると鼻先で笑う。

アイデンティティの喪失に想像力が働かない原因としては、家と仕事場とスーパーの往復の貧しい生活をしていることもあると思う。

諾々と与えられたぬるま湯の中でしか生きていない。


そういう貧しい生活でもう一つ働かない想像力があって、finalventさんが子供を育てる場と死者を悼む場がないと、(結語は忘れたけど)そのふたつが大事と言っていて、その根拠が私の中になかった。

これは

死者との連続性という意識を欠いては、民族も国家も成立しえない。

「悼む」という行為を通して、死者との連帯の重要性想起させてくれる本書の意義はとても大きい。

と、その前半の言葉の根拠が私に分からなく、佐藤優は根拠を説明しない当然のものとすることにつながっている。

これは、山本夏彦が若者は日本の教養を共有していないことを嘆いていたことにも関係しているのかもしれない。

とりあえず佐藤優が紹介した

悼む人 上 (文春文庫)

悼む人 上 (文春文庫)

は読んでみようかな、というのと、

生活の場、人が生きて死ぬこととはどういうことなのか、いまいちイメージしきれないのであるが、ぼやっと頭の隅に置いて考えようと思う。

自己実現は限られた少数の人の持ち物で、大多数は「何とか」生きている世の中で、何を希望に生きていられるのか。

名も無き人だけが見える世界もあるはずなのだ。

(挫折を受け入れ切れていない自分にはまだ想像力が及ばない)