故郷を持つこと

私は転勤族だったもので、故郷と呼べるものがありません。

母も同じく転勤族だったので、同じことを言っておりました。

育った家が夢に出てくることはありませんが、一方で何故か祖父母の家は良く出てきて、愛着があります。

でも、祖父母の隣の家は、家を売ったそうです。

トヨタに勤めたとか、わたしより数歳上でクラウンを持っていて、それはいいけど、向こうに家も構えたそうです。墓も持って行ったとか。

親の面倒を見るのもオプションになれば、故郷を離れるのもオプションなのかな。

結局は、金さえ積まれたら、家も手放すんだろうか。(んー利便性とか交換可能性とか引っかかったな)

アイデンティティに育った場所が刻まれる人といない人がいるということなんだろうとは思いますが、それも建前で、庶民的には300万円にもならない築50年の家が1500万で売れるとなれば、飛びつくような気配がした。

日々の暮らしにあくせくしていれば何事も金には変えてしまうのもしょうがないのではないか。

と、なんとなく、アイデンティティって裕福な人の戯言風味にも思っちゃって皮肉屋気分になってしまったんですが、「滅びゆく言語を話す最後の人々」を読んで、唯一無二のものが存在するのを説得力を持って言えるのか、単に金持ちの寄付的ではないか、読んでみる前に書いてみた。

故郷のない人のただの憧れではないのか。持っている人は有難みが分からないもので、ただの無い物ねだりの一種ではないのか。

アイデンティティって、豊かな生活をするのとバーターになるものなのか、足ることを知るが発動する条件とは何なんだろう?

階級差を肯定する条件とはなんだ?