自分で考えることと自己欺瞞
finalvnetさんのケイクス連載で考えたのでつらつらと自分語りを。
この世界には確固たる原理性も価値も存在していない、そう思わなければ、自我としての自分が生きていけない。このため、人々はそれぞれの幻想をこの世界に投げかけて戦っている。そういう思想を広めたいのである。
https://cakes.mu/posts/7297
という、ものぐさ精神分析の書評である。
私は世の中の人には世の中の人の数だけ真理がある、と思っていたが、岸田秀の影響が濃かったかな。単にポストモダニズムだと思っていたが。
最初のほうで、
思想は通常、それがどのように難しい形態を取っていても、内面の思考と外面の表明の間に差違を持ち、そこに矛盾を抱えている。およそ自身の内面に何か思索の対象を見い出すこと自体が、数学や物理学の課題が与えられるということとは異なる。 (略)
思想の外的な表明自体、社会・共同性に対する怨恨による自己肯定という醜悪な欺瞞である。この背景のすべてに横たわっているのは、「抑圧」である。抑圧とは、意識の外部として存在する「無意識」による、意識への覆い隠しであり、自分自身が気づかず自分に嘘をついている状態である。
思い当たる人、手を上げて、と言われれば、はーい!である。かつては、自分の考えのほうが正しいもんという言葉を飲み込んで笑っていたが(しっぺ返しを食らう)、今は別に考えることが楽しく、他への影響は考えていない。
何かをお題に考えて、結論(あるいはそれまでの過程で)、こんな考え方もできないかなと、ぽちぽち思うと楽しい。
自分の思想を広めようと思うには、自信がないというか、正しいと思い込みたいエネルギーがないというか、懲り懲りだというか、専門書を買っても、絶対今の仕事をやめようとは思わない。
確かなものを抱えて遊ぶのと、遊びでいっぱいいっぱいになって追い詰められるのは違う。
まあ、先輩に注意された時、「なぜ反論しない」とごいを強められて、言い訳できるものは当然あるのだが、言ったら更に怒るときもあるし、それはするなと菜根譚で、もし私が正しければ後で証明されるさ、と思っているのだが(ちなみに先輩は反論魔で、その点を問題視されている)
それが欺瞞なのかと言われたらそうかもしれない。
というか、影を認めることが出来ないのか。
自分には正しい本心や美しい純真があるのだと思い込みたい人ほど、実際にはそれに見合うだけの嘘を抱えている。抑圧は意識のなかではっきりと気づかれることはないが、不安や精神病理として粘るように思想に付きまとい、正義を装った執拗な他者攻撃に変わる。
〜しないといけないと思っているかと言われたら、人には色んな意見があるという一つの意見にこだわっているが、他者攻撃をするほど他者に関心はないと思っているので、とりあえずこれは善しということにしておこう。
ちなみに、私は、物事をある種の感覚でラベリングしている。たぶん人とはラベリングの仕方が違っているのだと思うのだが、○と△が似ているという類似点の拾い方はおかしいと思う。
上司は思いつきでものをいう、である。物事の本意と違うと思う。
で、感覚と感覚が近いことが多く、一つの指摘で、ざっといろんなことが変化するので、当意即妙はむりである(し、指摘が、新しい考えという感覚のレベリングになり、指摘内容のラベリングが遅れるため。言語で考えているのではなく、感覚の流れを言語変換している)
新しい感覚の影響力の範囲はだだっ広がりで限定することが出来ないし、一つの感覚で浮かぶことが多すぎて、物事を言う順序がグチャグチャである。
というわけで、今日の中間面談では言い方の改善の余地ありと言われたのだが、少しハードルが高い。
誠意を持って嘘をつかずに直球勝負で、というのに加え、考えたことをそのまま言わずに一拍置いて、言う(内容ではなく)必要を考えて話す、というのを後期の目標にしたいと思います。
うちのコンサル業務はあんまり手管を巻かなくても信頼第一なのである。
(追記)
古典的世界の人間とは、ごく簡単に言えば内面に価値と自由を持つ近代人である。どういうことかというと、世界や他者の価値観に対して、自己に依拠した価値を対峙できるということだ。そのために、教養の研鑽が問われる。
具体例で言うと、バッハやモーツアルトの最上の音楽を理解することは、古典的世界の人間の喜びである。また、聖書やドストエフスキーを読むこともそうだ。食事にも当てはまる。特に高度な料理技術がなくても、この上もなく美味しい牛肉の煮込みというのは作れる。
しかも現代という時代は、事実上、バッハやモーツアルトの音楽や聖書やドストエフスキーは無料である。内面の価値性を見いだそうとするのに困難さがあるとすれば、自己の教養の研鑽くらいでしかない。
https://note.mu/finalvent/n/n4d876cc04433
「自己に依拠した価値を対峙できる」て、ルサンチマンまみれにならずにどーやるんだろ?
ちなみに、私はfinalventさんが歴史の審判に身を任せているのを知っているというか、他に手があるのか、後編(だか中後編)は乞うご期待である。
結構、他人への関心の無さ(他者への当て付けつまりは関心の反対は無関心)であるような、オレっち、人の邪魔にならず考えていたいのであるが。
どーでもいいけど、毎朝、無教会主義のトラやんの全集を読もうかなっと思っていたりする。
こないだ流し読みしたら、字面を追えないでもないと判断して、てーか、ニーチェか、ニーチェなのか?
(本を読む息抜きに書きなおしているのだ)