人を殺せる回路が理解できる
「オウムはバカ」で済む問題じゃなくて渡殺や大乗乱などと同様仏教の本質に関わってると僕は考えてる。まあ、これを仏教な人はハナから否定するけど、大乗乱とか知らない人も多い。これは親鸞の「千人殺して」にも関連してると思う。
「オウムはアホがやってった」というのも当時を見てた自分には神話っぽい感じがする。あれは裏教義があったと考えたほうがいい。サリン撒きに高弟を直接使ってるのも修行だったっぽい。
finalventさんのツイートをお題につらつら書こうと思う。ちなみに、今のところ思考を飛ばすことはできていない。
結構、ネットのガゼかどうか、というか、信頼の出来る人かどうか、文章から読み取ったりする。
断言の程度が根拠である。
自分の不可知を知る謙虚な人にもアホはいるが、不可知を知らない断言をして決め付ける人は危ない。
たまに、私もこれだぁと思い込むことがあるので人のことは言えないのだが、飛行場の霧がサーと晴れて、視界が良くなるっ瞬間というのがある。
こう飛んでいったら目的地に着く、地図を書いたと思う瞬間はたまらない。
宮台真司は「オウムはさまよえる良心」と言っていた気がして、「ついていく師匠を間違ったんだよ。どこで怪しいのか見極める力もないとね」(たぶん違うけど)と書いたのは内田樹だったか。
何かを決めるときにこれだぁと思う。橋本治はキリスト教も仏教も始まった時は社会良識に反していたと書いていたような、現在の反社会、未来の常識、みたいなこともあると思うし、現在の良識で不可なことでも、追求したいことはある。
ストッパーは一体どこで掛けるのだろう。
結構、本店に行くとおかしくなると言われるのは、人を数字で捉えるようになるからではないかと思っている。
一人ひとりの生活を鑑みていたら、それこそおかしくなるのでそれを押し殺しているうちにそのうち麻痺しちゃうんじゃないのか、みたいな。
宮台先生が、トロッコの先にポインターがあって、その先には5人の人、切り替えたら1人が助かる、そこで僕は切り替えることを選択できない、と書いていたような、トロッコのポインターを切り替えることが出来る人は人を殺す動作ができる人だ。
人を数で捉えているということで、多数の人を助けると思い込んだらサリンを撒く可能性はあるってことだと思う。
オウムの人は多数の人を救うための犠牲として、尊い犠牲を出したのだ、と思い込んだ、と私は思っている。
それで、サリンを撒くってことは、戦艦大和で、俺達は日本が良くなる捨て石になるんだ、って言ったことと通じていると思う。
ヤマトの人は自分の命がチップなわけだけど、大いなる目的のために殉ずる人がいる、まあその回路が否定できるのか。
ペトロニウスさんならマクロの目的のために殉ずる人、ってなことになると思うし、そんな人が居ないと回らないだろう。
でもそれは人を見捨てることが出来る生き方だ。
一方でfinalventさんは身の回りの人を大事に生きていきたい(とは言っていないけど、マクロのことには否定的)派で、マクロを志向しない生き方もあるんだろうと思うんだけど、そんな人でも、つい☓☓さんのためなら死ねるってことを考えれる人は、少し飛躍があるけれど、☓☓さんを助けるためには人を見捨てることが出来るってことにもつながりかねず、そこで一歩進めると、極限状態だと思ったら、☓☓さんのために人を殺せる、その回路が理解できるのではないか。
第二次世界大戦の人間魚雷の人の気持はよく分かる派である。自分は。
愛ってのも因果なもんだと思う。
(追記)
論理が混乱しているが、人を殺せる回路って案外身近なところにあるんじゃないってことで一つ。