ぼくは勉強ができない
[追記の追記]アリ
- 作者: 山田詠美
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1996/03/01
- メディア: 文庫
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幸せになることの手段としてどう思想を持つかってことだと思う。
幸せになるには、他人との関わりが欠かせず、他人とどうやって付き合うのか、ってことなんだけど。
物語の始め、主人公は、「自分の判断基準」を打ち立てようとしているのだが、
成績の悪い子を否定する子を
そして、傲慢にも否定するのを当然と思う人間が当たり前のように生きているのだ。
大学を出ないとろくな人間になれない。脇山は、何の疑問を持たない様子で、そう口にした。
何故なら、そう教える人間たちがいるからだ。いい顔になりなさいと諭す人間が少なすぎるのだ。
と、友人の可愛い子にがり勉の脇山君をもてあそんで捨てさせたことを肯定するのだが、自分の価値観で否定できる人を見下しているという点で、脇山君と主人公は同じなんだけど、的に引く。
まあ主人公は2話で自分の自信の源でもある彼女に、「私、すごい宿酔。頭が痛くって、あなたの高尚な悩みだか、考えだかを聞いてる余裕ないの」とすげなくあしらわれて、自分の考えが大したものでなく、道化者の立場に立つことで、主人公が絶対的に正しい立場にないことは示唆される。
主人公の母親が「母親の立場から言わせてもらうと、社会から外れないように外れないように怯えて、自分自身の価値観をそこにゆだねてる男って、ちっとも魅力ないわ」ってなところで立ち位置があったのだと思う。
(母親の影響下やん)でも、社会の価値観を受け入れている人がいい顔をしていないかと言うとそうでもなかろう。
私もどっちかと言うといい顔肯定派である。でもいい顔をするにはたぶん自信が必要で、どこで自信を持つのだろう?
何かであること、何かができる自信ではない気がする。生きる意味か、と考えて、何かをしたことではなく、何かをしなかったこと、自分ルールに外れないこと、と考えて主人公と同じ着地点かよ(汗)ちょっと違うと思いたい。
私が「社会の中に生きている」ことを自覚したのは高3のときで、(それで言うと高校生の主人公に社会の視点がなかったのは仕方のない設定か)自分ルールは大勢の人の中の自分がどう生きるかという視点が欠かせないか、と、まだズータラ生きていて、断言できるほどの物はないんだけど。
名も無き人として、恥ずかしいことはしたくない、と、オウムに引っかかりそうなことを思っている。
[追記]
不条理に耐える力かな(←?)
(他人が入らない基準ってことは、私は高校生並みってことか)人が死ぬときは一人だー
[追記の追記]
山本七平の菜根譚というか、自分に嘘をつかない生き方?
と、いろいろまだ考え中