やくざでも身内には優しい

リアルで落ち込んでいるときは、ネットするな、ではありますが、何をする気にもなれないので更新してみる。


私、それなりに中小企業の社長というかまあ従業員0人だったりはするけれど、の知り合いがいる。

社長と言うより起業した、というべきかな?

意識高い(←笑うところ)自分としては焦る。

でも、「秋津に起業は無理」と母に言われるに納得できるところがあります。

私は良くも悪くも人を切り捨てることができない。

ログ・ホライズンのにゃんたが、やけっぱちになった人を見捨てられなかった気持ちがよく分かり、それが私の課題だ。

アドラー心理学では、子どもがアホなことをしても放っておくのが基本、(か)

他人は他人で気にすることではない。

でも、他人のすることに干渉することはなくても、じっと手を差し伸べる、それに救われた人は多いはずである。うざがった人も多そうだけど。

なぜかルパンに泥棒はやめてください、と言い続けた乳母の存在を忘れることができない。

見捨てることができない苦しみは自己愛でしかないのだろうか?

理屈通りに感情をコントロールできなずに新しい人生を踏み出せない人は愚かなのだろうか?

他人のことは他人のこととしてズバッと切り捨てて顧みることのない人はそれなりの辛い経験をしてきたんだろうと思う。

なんとか生きるということは、他人を拾う余裕がないということだ。

小学生の時に私をいじめた子を「でも、妹には優しいんですよ」と担任はかばったと言って「やくざでも身内には優しいわ」と母親は吐き捨てていた。

皆にやさしいってことは、誰にも優しくないってことである。

限られた資源の中で選択をせざるを得ないのが人生で、でもそれを肯定して後悔しないのも自分に対する嘘のような気がして、私は判断を保留中である。やくざにはなれない庶民的に。

偽善だと断言できるのか。

そういう割り切りだけの人間関係しか築けない自分ではあるが、他人に対するさりげない思いやりがない社会を想像するに薄ら寒いのも事実であり、

さりげなく手を差し伸べるのは、さりげなくで良く、他人の人生を背負う覚悟がなければそれ以上のことをすべきではない気もしたが、

そう頭ごなしの理屈だけな世の中も息苦しいだろう。←仕事の失敗で死にたくなっている人のセリフ

自分が傷ついていたら、それですべてが免罪になるとは思わないにしろ、お節介が全く無かっても。

時代劇にあこがれつつ、過去には戻れないんだろうか

(添削ができないでもないけど、思考そのままであえて読みにくくする)