芯のある人と思い込み

「ISの戦闘員になりたい」として警察にガサ入れされた人について「恥ずかしい」とも思わない。あるいは、なんであれ、信念・信仰をもつことは恥ずかしいことを免れないと思う。

finalventさんのツイートをネタにつらつらと。


英伝で、ヤンが「信念と言う言葉を人が使ったら、その評価を1割落とす」だったか3割だったか、そんな表現があった気がした。

中学生当時、信念と言う言葉は恥ずかしいと胸に刻んだが、以後、信念と言う言葉を使う人にあったことはない。

ぶれない芯のある人はかっこいいと思う。

私は間違ったことをしたくない人なので、真理にあこがれる。

しかし、誰にとっても正しいことはない、と銀英伝(子供に1冊(シリーズ)だけ読ませるとしたらこの本)を読んで学習したので、何かを断言したら心が痛い。

信仰をもっている人をヤバいと思うのは、目のいっちゃってる感である。

芯のある人とどこが違うのかと言えば、人の言うことを聞き入れる余裕、かな。

で、私は信念や信仰をもつのに憧れがありつつ抵抗感がある。

でも、finalventさんのツイートを見て、信仰を他人に押し付ける厚かましさがないのなら、信仰を恥ずべきものだと捉えていたら、信仰をもつのもありか、なんて。

というか、他人のいうことと真っ向から反対するものを自分の中に持つ、そこで他人を悪く思わない心を持つことができるのか。

自分は自分、他人は他人である。自分のすることに責任はとれても、他人の人生の責任はとれない。

(兄貴が他人のすることに対して、プンスカうるさいのであるが、早く他人のことを気にする暇がなくなるといいなと思う)

これを一歩進めると、他人をバカにする思想にもつながるし、自分だけ救われるのかと言うことにもなるのだろう。独善的な死臭がする。

「ぼくは勉強ができない」で社会の視点がない主人公はお子様やの、と思って、自分の信念をもつことは自分と違うことを信じる他人とどう付き合うのか、と言う視点が欠かせない。

ちょびっと、WEBの片隅、ブログでつぶやく、それが私の生き様であり、と、「勉強ができない」の主人公をバカにしたが、私も自分と違う考えの人とどう付き合うのか、意気込むこともないけど、断言するほど強い思想も持っていないことに気付いたのであった。

私の正しさは、どこまで外に対して強く表現するのか。いや、つぶやくだけなんだけど。

(追記)

私は他人の考えは問題にしない。一緒に何かできたら十分なのだ、な人なのであるが、なんかきれいごとすぎない?

他人の考え、引いては他人はどうでもいいと思っていることになる。

あ、ケイクスの連載をまだみてないや、見にいこう。