分かりやすさに納得する度合い
大学時代に週刊新潮(だったか)の変幻自在にハマったし、田中宇も読んでいた。
実験が忙しくて疎遠になって、嫌韓本はまあそれとして読まなかったが、以後、あまりに分かりやすい文脈だと頭の中の警報が鳴る。
この視点はなかったなと感心して、それが事の真相だと言われても、フィクションとして楽しむ態度を採る。
分かりにくくても、理解できないので、そのまま覚えることもなく流れるのだが。
極東ブログの書き方が少し変わった。
スコットランド独立住民投票(レファレンダム)、否決で、国家の最低規模を2000万人と断ずる。
このネタ、何人かの規模があることは匂わせつつ、今までは何人かは知っている人前提で人数までははっきり書かれていなかった
(ようにも思ったが、2005年に記事があった:http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/06/post_efd7.html「愛国たれ=死ね、というシステムがこうした国家の臨界を決めている。」とかマジおもろいな。過去ログ、暇があったら読み直してみても)
根拠は、というと、軍事的な規模をあげていて、その根拠の論文はないようだが、面白い考察で、納得できる線を保っている。
今までより多分知らないであろう知識の注釈が増えた。
ちなみに私が「勉強になった」と書くのは,正しいかどうか判断できないけど,言っていることは理解できた,というニュアンスが含まれていたりします。
たろぁーるの日記(http://d.hatena.ne.jp/taro-r/20140930)
と、言う意見もあった。
一定の文章の中で一つの世界が完結すると、返って、私の目をどうやって塞いだのか、警戒心も働くが、極東ブログの場合、真理を書く、と言うより、東の端っこでヨーロッパで流通する意見(それもただの一つの意見として)を紹介してくれる感じなので私は警戒心が働きにくいのであった。
あくまで一つの意見を増やす感じである。
日本の世論が熱くなっているときに、でもこーゆー意見もあったよね、と少し距離を置くのに使っている。
逆にあまりに分かりやすく書かれたので、ある層にはいろいろ書かれている気もする。
ワシントンポストでも読んでみたい野望はあるのだが、日本以外の情報源を持つようになるまで極東ブログが続いてくれていたら良いなと思うのであった。
私がfinalventさんに傾倒していることを知っている人が、賛成しない意見はあるの?と質問したが、知識問題はほとんど重ならないのでそれはそれとして楽しんでいます。
腹筋の記事書いたときは突っ込みブログ記事を書こうかと思ったぐらいで、他人がどう考えようか、結局私にとっては他人事である。(次は、「ぼくは勉強ができない」(山田詠美)を読んだ感想を)
山本七平の言う薬としてしか、他人の意見を聞き入れないのであるが、井筒俊彦の「イスラーム文化」の批評で、(https://cakes.mu/posts/7113)
イスラム教を宗教として見た場合、第一に何が言えるか? 井筒は真っ先に意外な特徴を提示する。それは、砂漠の宗教ではない、ということだ。
も面白いがそれは置いておいて、
しかも、それらの解釈がどんなに違っていても、全部とにかく『コーラン』という同一テキストの解釈であり、究極的には『コーラン』で統一されている。この意味でイスラーム文化は『コーラン』をもとにして、その解釈学的展開としてできた文化であると言ってよいのではないかと思います。
結果、イスラム教の世界は、あたかもコーラン解釈学会とでもいうような独自の様相を示すようになり、解釈とは何かという本質的な精神運動を引き出すことになる。
日本の思想(宗教)は薬とは違う世界の在り方を解説してくれそうで、来週が楽しみである。
実家の本棚の、どこに置いたかな、2カ月以内に読むぞー