生きる意味を考えている

私のモットーはニーバーの祈りだ。

神よ

変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。

神ならぬ人間の身には、変えることのできることなのか、変えられないのか、判断がつかない。

諦めて受け入れる努力をするか、諦めきれずにいつも同じ結果になる無駄な努力をするのか、どちらにしても気分はギリギリである。

受け入れようと思って、受け入れられずに煩悶する、頭で思ったことがすっと心で納得できるようならば、争いごとはなくなっているだろう。

のた打ち回るのが人生だ。

で、そんな人生を与えた神がいるなら恨むのか?

自分の人生に起きたことが、自分の今の価値観で否定したとしても、ある人の価値観にとっては望ましいことかもしれない。

自分の人生だし、恨むのも分からないでもないが、いろんな人生があって、運のいい人がいれば運の悪い人もいる。

起こったことを考える暇があるのなら、その状況を覆す努力をしろ、とか私は思う方で、幸いなことに私の人生は無気力に陥るような絶望感はない。

finalventさんが無気力を学習する論文があるように書いていたが、それがあればペトロニウスさんに読んでもらいたい気がするのであった。)

人生の意味はあまり考えていない。

私の存在は私が死ねば忘れられる。私は私のことを人格パターンで言うと珍しいほうであるとは思っているが、そんな差異を問題にする人はおらず、代えはいくらでもいるのが事実だ。

でも、この瞬間ブログを書いていると楽しいし、一息、楽しい瞬間があって、それ以上を望むのも恐れがましい。

結果としての意味はなくても、過程が楽しく、そういう意味はある。

苦しかったとしても、その苦しさは私だけが味わう私だけのものだ。

(とあまり苦しくないと思う。素朴な実存主義者だろうか?)

エスは、「この人が盲人なのは、本人の罪でも、両親の罪でもなく、この人の上に神のみわざが現れるためです」と言いました。

 私には難しくてよくわかりませんでしたが、でも何だか救われた気がしました。神のなさったことなら、ものすごく大きな意味があるのかもしれない。そう思いながら聖書を読んでいきました。(後略)

横田早紀江

苦しさに意味を求める気持ちは分からないでもないが、なんで苦しまなくちゃいけないんだと癪なので、あまり認めたくない。

新約聖書のマルコの福音書5章を読むと、ヤイロの娘が亡くなって、父親がもうあきらめていた時、イエスは「恐れないで、ただ信じていなさい」と一言おっしゃいました。それは今の私と同じだと思いました。神様がいらっしゃることは確信していますが、神様が何をお考えになり、何をなさろうとしているのか私にはわからないので、信じるだけなのです。

 「信じる」というということの一つの普遍的な形が簡素に表現されている。神の御業は理解できないが、信じる、あるいは、それの理解できない状態であることが信じるというということである。微妙なので、こう言ってもいいかもしれない。御業が理解できたらそれは信じるというのは少し違うのかもしれない、と。

 私にはそういう信仰はない。まるでないと思う。人生にはなんらかの意味がなければ生きることは難しいだろうと思うし、人生は無意味だという人もどこかで意味を隠して生きているのだろうと思う。私が思うのはそこまでである。
極東ブログ「[書評]愛は、あきらめない(横田早紀江)」

何か、私に好意をもっている存在を仮定するという前提がなければ、信じることはできない気がする。悪意の神を信じて「前向きに」なることができるのならば、親鸞の師匠は観察対象に値するかもとは思うが。

(意味飛ばした←よく分かっていないというか、私は罰せられるべきだと考える人は多そうだよな)

小室直樹の書くプロテスタントのことを少し思って、finalventさん、最後の3文は、読み飛ばされそうな含蓄あり過ぎである。

人生の意味について考えているのであるが、私の辞書に意味の言葉に代替するものはあるのか、たまに考えている。

私がこれからすることが重要なのであって、目的を達するためのルートを考えるのが楽しく、その結果は問わない。

私は奇跡と言っていいと思う。それを生み出したのが信仰だというなら、そう思う。
前述の極東ブログ

山本七平神谷美恵子の存在に救われる気がする、と書いた自分ではありますが、これはまあ奇跡を見たと変わらないか。

そんな存在がいるなら生きていてもいいか、と思う回路がある。