骨董屋からくさ主人

自分が何歳であるかによって、また滋養の異なる作品だ。

その後、私が古伊万里を商売の主力に取り入れるようになってから気が付いたことは、いち早く専門外の初期伊万里を扱われたNさんの炯眼である、

時代の流れに敏感で、常に新しいものを取り入れていく姿勢と、取り入れた感覚をすぐに更新のものに与えていくNさんの行動力は、のちに仕事を展開する私にとって、大きな指針になっていったのである。

私なんかは、この分にほほうと唸る類だ。もうそろそろ自分の可能性を諦めなければいけない身には

「おかえり、どうだった」は誰でもいえるが、「いい勉強したな」はなかなかいえる言葉ではない。

海の男と勇んでいても、このまま人生を過ごすわけにもいかず、また沖に出ていくには体も心も疲れ切っている。

といって男の意地もある、さあどうするという時に「いい勉強したな」のひとことは、ぐっとこちらの胸にささって、張りつめている若者の心にたいする思いやりの言葉だったと、親父の亡くなった年になった今になって気が付いたのである。

なんかもよく分かる。

「いいこと教えて頂きました」と言う場面については、まだ私の持ちネタになっていないので、辞書に加えておこう、とほくほくする。

しかし、青磁の花入の貫入をごまかすためパラフィンを刷り込み友人に売ったら、後日友人宅に招かれた際全身べとべとになっていて、友人のもっていた傷物の皿を市価の十倍で買った話なんかは、まだまだ感情移入できない。

そんなこともあるだろうな、で終わりである。

自分の至らなさにカァとなるところなんかは、まだまだ自分は傷が疼くのでお主もか、とニヤッと笑うことはできない。

(著者は笑っていないのだけれど)

この本は20代の人が読んで面白い話ではないだろうが、そろそろ30も半ばになろうとする私には面白さが分かりかけた頃、懐かしさをもって過去を思い返すことができるのだろうか、

あるいは、過去の痛みをそのまま持って過ごすことになるのだろうか、50歳になったころ、また読み返してみたい本であった。