外交としての”鎖国”

最近、江戸時代に鎖国なんてなかったという噂を聞いていて、その背後にはこういう思想があったのか。

理路整然。

つまり、「鎖国」とは言っても、オランダ・中国とは通商関係をもち、朝鮮と琉球の二国とは政府どうしの外交関係を持つ体制が、江戸時代を通じて維持されていたのである。

ただし、「これまで交流のない外国とは新たに国交を開かない」という幕府の方針は確かにあった。(略)

しかし、それは、特に明文化されていたものではなかった。そもそも「鎖国」という言葉自体、まだ当時は存在していなかった。

この言葉は、元禄参年(1690)に出島のオランダ商館付き医師として来日したドイツ人ケンペルの遺稿集『日本誌』の一部を、享和元年(1801)にオランダ通詞志筑忠雄が翻訳した際に造語したものである。

しかし、このとき、「鎖国」という言葉がなかったからと言って、国を鎖して居なかった、とは言えない。

1793年、ラスクマンと初めての日露交渉が行われた。

ここで、戦争への危機感を抱いていた松平定信がどうやって収めたか。

てゆーか、そんな見事な国際感覚は一体どこで培ったのか。

とりあえず追い返したものの、11年後またロシアがやってきた頃には、松平は失脚し、強硬派が台頭していて、通商条約を結ぶには至らなかったのであるが、もし、通商条約が結ばれていたら、ぺりーの砲艦外交もなかったことになって、いったい倒幕なんて、とか色々妄想する余地があるようであった。

しかし、海外との交渉を断つだけでは鎖国は成立しない。

鎖国を保つためには海外の情報にもある程度通じていて、もし外国が通商を求めてきたならばどう対処するかを想定しておく必要があった。