ある種の畏怖

(追記)あり

年末に、finalventさんのツイートが分からない、と書いた。

その後、ぼんやり考えるに、

知性というのは、「内的な促し」のひとつの帰結に過ぎない。その内面性への畏怖のないところに、そもそも知性などありえない。

というのは、まだしも分かるような気がする。

私が本を読むのは、知識欲があるせいだが、本を読まずに平気な人は平気だ。

なぜ知識欲(内面的な促し)が私にはあって、それに振り回されるのが、不思議(畏怖する)、ぐらいには解釈できる。

でも、後半の

いえ、人間存在に開示されるものへの畏怖感です。

人間に分かるだけの知、ってのは限定されるのだろうし、人間にわからないものに圧倒される、とは、私の考えではあるが、前半と上手くつながらない。

finalvent ‏@finalvent 1月16日
まったく同じ。"@aiennkei: @finalvent ちょっと前に言ってた「内面的促し」は森有正先生が言ってた意味と同じでしょうか?たまたま読んでいた「生きることと考えること」に出て来ました。"

と最近、会話していて、「生きることと考えること」か。読んでみても面白いかもしれん。

プレミアついていないといいけど。


[追記]
「知」をどう定義するか?私は「現在より良い方法を探すこと」ぐらいにしかとれないな〜

前半と後半をまとめると、「自分にどうしようもない理解を超えたもの」に対する畏怖がないと、知性がないってことかな?よくわからん。

ただ、私には全能にはなれない、無力さがあるよな←前半とは繋がらない?

常に自分が知らないことがあって間違っていることが前提のような。