本を読む後ろめたさ

宮台真司が、娘にはただ勉強できるやつが偉いという価値観を教えたくない(麻布では勉強ができて遊びができる奴が一番、遊びができる奴が2番、勉強ができる奴は3番という順位づけだったとか)で、

確かに勉強ができても幅のない奴は尊敬の目で見られなかったな、で、

私の本好きは、役に立たないし、地方路線の鉄道の名を順にいえるのと変わりがないどころか、

大学では皆のいる前では本を読まなかったぐらいで、読書する奴は痛いクラスタになる。

班長が50を超えて休日に野球に励んで楽しそうなのであるが、

俺の本好きはフィギュアを集めるのと変わらない。

思わず、2流の知性の後ろめたさという言葉に反応してしまった。

私は収集心と向上心(ではなかったな)で、役に立たない知識を得ることが充実感を得ることになるので、読書はスマホでゲームをするのと同列なのが、少数派は肩身が狭い。

自分のすることの正当性を考えてしまう。

浅羽通明の「大学で何を学ぶか」は教養とどう付き合っていくのか、が最後のオチだが、どうもはてなのブログを見る限りそこに注目した人は少ないようだ。

教養がある団体において共通事項である限りは学ぶ価値があったようだが、私の得る知識は周りと共有されないので、何のために学ぶのか、いつも突きつけられている気がするのである。

(一人だけだと嘘っぱちを教えられているのか、確かめようもない)

燦燦たる日本文化の一員になるとでも言えれば楽になれるんだろうけど、というわけで、とくに知性というわけでもない有象無象は後ろめたい気持ちを引きずるのであった。

3人ブログを見てくれる人がいれてうれしいというのも、別に自分の言うことが素晴らしいのを認めてもらっていると思っているわけではないよん。

自己表現も一人ぼっちだと寂しい、ぐらいの意味である。


(追記)
ってゆうか、仕事もできないバカが本好きって、救いようがないよね。