正義を貫く
先日は「怒りを表明できるのは強者のみ」ときて、「怒った時点で被害者ではない」と毎日4人前後の人しか見ないブログの強みを生かしてやろうかと考えたりもした。
怒ること=相手との関係の破綻も視野に入れる=守るもののない強さ、みたいな。
ま、兄貴の場合は単に怒っても関係が切れない自分の立場が強いことの自覚が全くないということを無意識的にかそういうことはやめろよみたいなやつではあるんだが
強めの障害者とはいえ、ネットでは叩かれる程度の強さでしかないしというか、
少し気に喰わないことをしたら全否定するのではなくて
自分以外の意見を認めない人とは私はお友達になれないというか、説得されるにも自分可愛さのファクターを加味せず、説得されなかったこと=相手の意見全面否定な人が生息するのは息苦しい。
あなたの意見には賛成しないが、あなたの意見は守るというか、あなたに突っ込むけどあなたを変えることまでは思っていませんというか
「正義を口にするのは生理用ナプキンを口にすること」(?)はいい言葉だと思っていたりする。
が、これって世間一般に迎合する生き方なんだよね。
皆様をお騒がせして申し訳ないは理解できても、貧乏くじを引いてまで実現すべき正義という設定がうまく出来ない。
罪を犯しても、世間が許されば検察が動かない、みたいな、ホリエモンに執行猶予がつかなかったとか、
罰が恣意的に発動させるのに対して言葉がないというか、
貧乏くじを引くことを覚悟で声を上げる場面は想像できても、それを何を実現するためなのか、がイマイチ想像できない。
要するに幸せな人生を歩んでいるということなのだが、倫理がそもそも理解できてないというか、
マイケル・サンデルも読んだら面白いんだろうけど、現状肯定あるがまま派で体制派なのである。
山本七平を2ヶ月ばかり積んでいる。
日本人(私)の思考経路をもっとはっきりさせて、他にどんな考えがあって、自分はあえてこの考えをしているのだと立場をはっきりさせたいんだけど、外人の書いたものを直接読んで対比もさせてみたい。
縮みの日本人論、買ってたっけな。
日本人論は存在しない意見は流します。
自分の意見を押し付ける権力性は何によって担保されているのだろう。
実現されなかったできごとは、理想でしかなかったわけだが、実現されなかったことに異議を唱える行動は順番をすっとばかすとただの迷惑だ。
現実を一歩一歩動かしていく、とやっぱり体制派というか、
橋本治「89’」の「俺はまだ踏ん張っている]と思いながら流されるおじさんとか自分のことのようだ。
権力に無自覚ではありたくないと思うんですが、マルクス方面は敷居が高いっというか、国家論に行っちゃうよなー