読んだ本を自分のものにすること
中一当時、東京バビロン
東京BABYLON [愛蔵版] (1) (CLAMP CLASSIC COLLECTION)
- 作者: CLAMP
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2012/01/07
- メディア: コミック
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悲しいことがあって、その場で悲しむのか、受け入れられなくて笑うのか、その状況におかれないと分からない。
ある人が笑ったからといって、私が笑わないことがおかしいというわけでもない。
当事者の優位性ってどの程度担保されるべきなのか。
想像性って、どの程度織り込んで、行動すべきなのだろう。
私はとりあえず、分からないものは分からないとして、保留しているけど、青山南の本が面白くなかったと書いたときそれは言っちゃいけない気がする。
否定の言葉はあえて言わなくても、と思う。
そんでもって、相手に正当性がありそうなとき、黙る。
(ベントさんが死者の声(だったか?)について書いていて、私はその意味が分からなかったことをブログのネタにしていたが、今ならもう少し理解できるかも。
山本七平の「空気の研究」も読み直してみたい)
当事者じゃないとき、歯止めをかけることができるのか。
結構、戦争体験とか体験者だと嫌だということもありそうな気もする。
戦争に対して、死者を数字としてとらえる下の世代、みたいな。
体験の裏付けのない合理主義ってどの程度通じるのか、マキュべリでも読んだら開眼するかな。
ま、逆に言えば、市井に生きるものとしては、中途半端な合理主義より、心で生きたほうがいいのかもしれないとも思う。
たぶんその方が気が楽である。苦労は上に任せませう。(といいつつ、人の気持ちを踏みにじって決断しないといけないときは来ると思うが)
と、飛んで、体験の裏付けがなく読んだ本を自分の物にできるかといえば、たぶん無理である。
選択肢が見えない。書かれなかった行間が読めないし、AならばBになる可能性ではなく、Cで妥協するみたいなものも分からないと思う。
(十二国記で、本で育った早熟な天才は大成できないとあって(意訳が正しくないかも)、それがどの程度信頼性があるかぼやっと考えているのであるが、私の周囲はそんだけ飛び出た人もいないので結論の出ることではない。)
でも、書かれた文章のつながりだけでも、意表をつく人はいるので、思わずそれが面白くて読んじゃうのである。
たまに、何とはなしに印象に残って覚えることがあり、それが役に立たなくても、豊かな人生ってことではないか。
他人には理解されないことを大事にするってのも人生として有りではないかと。だって、誰のものではない私の人生なんだよ。
ってことで、役に立たないことだと思いつつ、本を読む。
趣味は読書だけど、功利主義者の読書術ではない。