愛の無常について

昭和24年作の昔の話である。

でも昔風の変なバイアスがかかってなかったし、良くも悪くもツルツル読めた。

特に最初の30Pは書き抜きたいことがたくさんあった。

人類愛、同胞愛を、多くの人は叫びます。その家庭、その一族の中では、深刻な内輪もめを続け、どうすることも出来ないのに、人類愛だけは持っている人が少なくない。

汝の妻、汝の兄弟を憎みつつ、同胞の愛だけは説く人が少なくない。(略)

つまり自分の身に直接触れてこない対象、その意味で抽象的なものほど愛しやすいわけで、換言すれば、自己の観念を愛しているということになる。

人類愛の名において、自己を愛しているのであります。

絶望して自殺すると言いますが、絶望とは何か。人間的に言えば、それは一の希望なのです。(略)

絶望による自己否定によって、第二の自己を形成しようとする点で、それは一の希望なのです。

自殺はこの希望すら放棄するのですから、完全絶望ともいえましょうが、さきにふれたごとく、自殺しうるという希望だけは最後まで保有してきたわけです。

自殺しうるという希望だけは最後まで保有してきたわけです。

人間的能力への究極の核心なのです。ある意味で野心であり、虚栄ですらあるかもしれませぬ。

一種の自己賛美ともいえますまいか。決して自己放棄ではありませぬ。

思想的に文学的に最高の指導者、最良の書といわれるものに接して、我々は果して「安心」を得らるるか、迷うものはみな、「安心」や「解決」を欲するものですが、最高の師や書は決して「安心」や「解決」を与えないという事実こそ重要であります。

世には様々の悩みを訴えると、即座に判断して、かくすべしと教えてくれる人があります。

宗教化とか身上相談専門家とか、そういった種類の人間がいますが、私には信用出来ないのです。

良き使途は、自分の得た限りの知識体験を教える人ではなく、自分の求めあぐんでいるところを明らかにして、この道を共に究めようという、迷いへの誘惑者であります。(略)

良き弟子、良き読者とは、導く人のそういう気持ちを察して、その跡ではなく、その人の求めんとしているものを求める人のことで、ここにはじめて友情感が生じ、この暖かさがかえって真の師弟道を成就せしむるのであります。

私の読書の仕方でいうと、じぶんがぼんやり考えていたことしかこの本から拾いきれなかった気もする。

なんかこう、がびょーんと人生観が変わるような思想に触れたい気もするが、それはそれでこの本でいうところの性急に過ぎるというところかな。

一歩一歩少しづつ、私は変わっていくのだよん。