意識は傍観者である
意識は傍観者である: 脳の知られざる営み (ハヤカワ・ポピュラーサイエンス)
- 作者: デイヴィッド・イーグルマン,大田 直子
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2012/04/06
- メディア: 単行本
- 購入: 9人 クリック: 86回
- この商品を含むブログ (19件) を見る
[書き直し版]
してはいけない犯罪は時と場所、教育次第で変わりそうで、その反対衝動を抑えることができるのなら、為政者においしく、SF的に開けてはいけない箱のような気もするが、そっちの方面に筆が進まないのは、技術がいまだ開発途中でSFチックに夢物語なのを悟らせないせいかとも思った。
被験者の頭に電極を付けて、指を動かそうという衝動を感じた瞬間の針の位置を報告してもらうと、脳波は報告の4分の1秒前に生じ始めた。
つまり、本人が衝動を意識的に経験するより早く、脳の一部は意思決定をしていた。
そのほか例を挙げて、自由意思は存在するかもしれないが、たとえ存在してもそれが存在する余地はほとんどないのだ。
脳腫瘍などのせいにより、犯罪を起こしたり、小児愛に目覚めたりすることもある。
脳に測定可能な問題があれば、それは被告人への情状酌量に値する。しかし、現在の技術ではわからない脳の問題で犯罪を起こしている場合も考えられるものの、生物学的な問題を検出するための技術がなければ、私たちはやはり人を非難する。
有責性が現在の技術で決まるというのは筋が通らない。私が言いたいのは、どんな場合も犯罪者は、他の行動をとることができなかったものとして扱われるべきである。
で、私たちは処罰を放棄するのではなく、処罰の方法を改めるのだ。現在、衝動を弱める方法が開発中だそうである。
犯罪者は善悪の区別はつく。罰のことも考えるが、衝動が抑えきれない(人が多い?)という内容の参考資料の題名が挙げられている。
そういう人たちに脳科学的に再犯を犯させない罰にするべきにしたらどうかというのが提案である。
しかし、犯罪者が全員が衝動に弱い、とするには私には抵抗がある。
著者だって、犯罪を犯す時に罰のことを考えないと挙げているように、罰を考えて罪を犯さない人だって多そうである。
罰にはそういう人に対する見せしめの意味もあると思うのだが、脳科学的に正しい処置が罰になると、抑止力がなくなるのではないかと思うのである。
それと、新しい刑罰を主張するには、今までの刑罰といい面、悪い面を比較しなければいけないのに、今までの刑罰に触れられていないので、新しい罰のいい面ばかりが強調され、印章論ぽく、説得力がない。
加えて、してはいけないことを(理性で)判断することができて、衝動を抑えることができる。
してはいけない犯罪は時と場所、教育次第で変わりそうで、その反対衝動を抑えることができるのなら、為政者においしく、SF的に開けてはいけない箱のような気もするが、そっちの方面に筆が進まないのは、技術がいまだ開発途中でSFチックに夢物語なのを悟らせないせいかとも思った。
なにがともあれ、補助的な刑罰として著者の提案は魅力的だ。もっとも、日本も刑務所でしか暮らせない障碍者、老人の話も聞き、制度的な問題も忘れてはいけないんだろうけど。
[書き直し前]
自由意思は存在するかもしれないが、たとえ存在しても、それが作用する余地はほとんどないのだ。
知識としては知っていた。しかし、自由意思をないものとして、犯罪の合理的な判決と新しい更生のアイデア、と言われると、正直ドン引きである。
確かに脳腫瘍がある位置にできると性格が(悪いほうに)変わることもあると言われると納得する。
また、遺伝だけで犯罪者になるわけではなく、環境にも大きく依存する。これもOK。
自分が恵まれた環境にいて、犯罪者が劣悪な環境にいたとして、罪は罪だ。
頭では納得できる。
う〜ん、でも、犯罪者の行為が全部脳のせいというのは、わたしには抵抗がある。
だって、キーボードで目的の位置を打つのに自由意思が存在していないなんて、ちょっと不思議である。
頭の中の意志、独り言より、体のほうが早く動いているとして、その体を動かす無意識の領域を意志が制御していないとするのは、なんか変!
納得できない。
同時に劣悪な環境に置かれたことに同情してしまうし、割り切れない。
再犯率を低くするプログラムがあったとして、しょせんは「率」、確率の問題にすぎないし、ま、世の中100%なんてありえないし、確率でしょうがないのかもしれないが、著者のいう更生プログラムがちょっと怖い。
性犯罪者の再犯率は精神科医と仮釈放委員会メンバーの予測は実際の結果とほとんど相関がなかった。数理計算的なアプローチの予測力は精神科医のそれとはまるで競争にならない。数理検定は全国の法廷で刑期を決めるのに使われている。
と言われたって、数学で人間が割り切れるなんてなんか信じられないのである。
数理検定の確率で人生決められたらたまんない。
もっともこれは、仮釈放委員に決められても嫌なのであるが。
自分が目標を達成しようとするのに、その因子が他の人、モノに決められると思うと我慢できないっツーか。
しかし、たぶん、初めから数理検定で決められる社会に生まれていたら、今の状況が変に感じるんだろうな
的ではある。しょせん世の中確率でしか割り切れないし。
そして、更生プログラムとして、優秀なロボトミー犯罪は当然NGである。
だとして、脳の犯罪パターンを変えるのに、相手の同意をどうやって得るのか。
人間習慣を変えるのにはものすごく抵抗すると思うのである。
著者の言う犯罪の意思を弱くするプログラムがあったとして、同意しなければ、社会から隔離されたまま、、、当然の処置ではあるが、当然過ぎて、ここは他の人に突っこんでもらったら、突っ込みどころがたくさんあるような気がする。
「人間は平等という神話」など、言っちゃった感があり、自由意思がない社会の青写真第一弾として、誠実な(?)出来であり、この本のまいた種がどう育っていくのか、楽しみなような、怖いような、そんな感じである。
たまに、この本の題名でググって、慧眼な意見がないのか確かめてみるのも面白そうだと思ったり。