悪魔のピクニック

悪魔のピクニック―世界中の「禁断の果実」を食べ歩く

悪魔のピクニック―世界中の「禁断の果実」を食べ歩く

作者は、世界各地の国々で禁止されていて、しかし裏では流通している食品を求めて、旅に出た。

今読んだ第一章では酒が厳しく取り締まれているノルウェーでご禁制の自家蒸留酒を求める。

ノルウェーではお酒を買うに厳しい仕組みがあり、なかなか手に入りにくく、平均的な消費量は日にビール1缶ぐらいなものだそうだ。

表向きは。

裏では、自家蒸留酒、密輸で、週末に密かにドカ飲み?

作者は禁止するから悪飲みが流行るという結論に持っていきたいらしい。

ここで思い出すのは、パチンコを韓国が禁止した話と、タバコが値上げされて貧しい人たちのストレス解消となり得なくなりつつある話である。

ついでに、どこまでネットゲームを楽しむか、仮想現実はどこまで認められるのか、という問題でもあると思う。

さらに広げると欲望はどこから生じるか、その欲望は誰かに仕組まれたものではないのか、仕組まれた欲望の解消だけで人生良しとするのか、しかし、仕事で自己実現とか建設的な欲望を持てるのは社会のごく上流層だけに限られ、下流では動物的な欲望解消しか仕方のないのではないのか。

と、ここまで書いて、サッカーとダンスとセックスで、人間関係を砂をかむ思いで楽しむしかないのか?

今だと萌えブタかな。

自分は、パチンコでストレス解消も、ダンスでストレス解消も、ネットゲームでストレス解消も、そう変わりないと思っている。

禁酒より、酒を飲められるほうがいいし、大麻もタバコもよし(自分はしないけど)

と思っていた。

しかし、「言葉でたたかう技術」を読むと、肉体労働で疲れた体は刹那的な酒と博打の快楽から逃げられない。

金がたまらず、最下流の生活から抜け出せない辛い生活が描写されており、そのような生活があるのならば、快楽禁止もしょうがないのか。

ノルウェーの例でいえば、夕食時に酒を飲むこともままならない生活と、酒に逃げるしかない生活の見逃しとどちらを取るか。

結局貧しい人はメタノールを飲み死亡することさえあるのであるが。

酒に酔いすぎることが長期的に見て損だから、酒に逃げる生活をしない、日々の希望を持てれる社会があればとも思うが、それも息苦しいか。

愚行権を見逃すことのできない正義感が持てない社会も息苦しいが、正義感は合成の誤謬のような気もする。

人生で快楽のコントロールができるのかどうかも生まれた階級次第のような気がする一方で、快楽を味わうこともできない、搾取されるだけの人生もまた糞だ。

この本ではコカの葉から作った茶も飲むそうだし、本を読み進めると快楽と禁止の関係に新たな知見が得られるとよいなと思う。