結果と過程は男の問題

SOMETHING ORANGEのもしドラ映画感想が面白かった。

もしドラ』は大切なのは「結果」なのか、それとも「過程」なのかと問いかけてくる映画なのである。

それは、結局、甲子園に行くこともプロになることもできなかったみなみの努力は無駄だったのか、ということにも繋がる。

でも、結果と過程を問題にするのは男特有の問題である気がする。

前の記事の「この世界は間違いであるのか」で、

それはけっきょく、「この世界は間違えているのか?」

「間違えているとしたら、その間違いは正すべきなのか?」という問題だと思うのだが

――まあ、力及ばずながら考えてみるので、同人誌を読んでください。

海燕さんの「この世界は間違えているのか?」という問題は、私用語では不条理の問題である。

で、こないだツイッターで「女の子が就職活動で差別について愚痴るのだが、あなたは今まで気づいてこなかったのかと言いそうになる」的な文章を見かけた。

つまり、もしドラでもそうらしいのだが、女の子は甲子園にいけないといった不条理に会いやすい。

不条理の前に結果はついてこない。

「マイノリテ ィの拳」(林壮一)で、最下層から拳一つ、ボクシングで成り上がろうとする人は、実力があっても判定で負ける。

映画では、甲子園に行けるかどうかは問題ではない。

結果と過程が問題ではなくて、手の届かない結果に対し、自分がどうふるまうか、自分がどういう生きざまをしたいかが問題になる。あ、過程か。

でも、過程で満足しているわけではなく、結果を出すことを目標としている。

結果に対して、ブーたれる暇なんぞないのである。

人が本当に打ちのめされるとき、文句なんぞでてこない。

神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして変えることのできるものと、変えることのできないものとを識別する知恵を与えたまえ。  

             ラインホールト・ニーバー

自分がこの言葉をモットーにしたのは、得意科目偏差値84で志望校に落とされたとき。

諦めきれないのなら行動しろ。何もする気がないのなら黙って受け入れろ。

ちなみに、結果を出し続けていたとしてどうなるか。

なんか角川の新書で、男の危機は就職後、部下を持った時、会社を退職したときの3回あると書いていたのがあった。

結局、壁にぶつかる(が、女にはこの壁はないそうだ)

それで、結果を求める風潮は35までの男の層だけに流通している気がするんだよね。

35過ぎると、だいたい自分の身の丈もわかるし、社会的成功をおさめられなかった自分と向き合う必要が出てくるし、finalventさんの愚痴(?)みたいな。

ってゆーか、海燕さんの同人誌第一号のオチ、エヴァに乗らないのかと思ったが、前の稿では乗ると明示されていたのか。

そりゃ、生きづらいはずだと思ったり。

[追記]
disってしまって反省。

海燕さんの話は、サンデル教授のカントの話で順序立てられているのではないかと、一瞬思ったりした(根拠なし)が、それに答えが出せたらすごいですよね。

次の同人誌も絶対買います。

海燕さんも新潟から出て、東京に行ったら、絶対嫁もらえるのに(根拠;活字と自活)