神様についていろいろと

なぜ私だけが苦しむのか(その2)(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20091229/p4)を書いた。共にある神でバオイモドキ神を連想して、なんだかな、と思ったわけだが、それが何でいけないのか。と思いなおす。

クシュナーはざっくりいうと神をいいことをもたらすから、ぎみに書いているが、それはすっ飛ばして共にある神を拒絶できる人は全人類にどのくらいいるのだろうか気になった。

その点「地下室の手記」をいつか読み返してみたい。主人公が共にある神を拒絶する気味にも思えるからだ。解説でキリスト教と関連する章を検閲で書き直すはめになったと書かれていたはず。主人公の救いを拒絶してしまうメンタリティーに感情移入できる自然さがあり、そういう人は神とどう付き合うのか。付き合える可能性の反語があったのか点検してみたく思う。

単に「共にいる神」に私の神観がジャストヒットしたとゆ〜それだけですが、いろいろ考えることがあった。悪を悪として娑婆のしがらみがあっても言い訳せずに実行できる人はどのくらいいるのだろうとか、孤独に耐えられるのは橋本治とあと何人ぐらいなのか、とか。

私は「神とは納得装置である」(http://d.hatena.ne.jp/akizu/20081214/t)に書いたが、神の実在は信じていないが、神の存在を必要とするし、孤独に耐えられるメンタリティーをしていない点でも神が必要だ。

関係ないけど、あれは思い出すこと10年前、大学受験の時でした。模試ではB判定だったが、数学が計算ミスで水もの、理社が得意でも200点科目で稼ぎどころがなかった私は、センター1日目が失敗したと思い込み(のちに採点、実際はひっくり返しも可能な位置)、2日目国語を解きながら全然わからないと泣きながら問題を解いたのでした。泣き疲れてはっと気がつくと、問題わかるじゃん。興奮して頭がどうかしていただけで難易度普通。あわてて解きなおしたけど、タイムリミット。センターはD判定で逆転できませんでしたとさ。

私は未来が自分の手で決まる重圧には耐えられない。運命を信じない運命論者で、運命は自分が動かすこともできるが、大枠でひっくり返せないこともあるんだろうと思っている。運命を信じるし、人知を超えた神を信じる。

意志を持った神は信じないけど、神様とどう付き合えばいいのか。カトリックにも興味があるし、仏教もかじってみたい。

ただ、橋本治は「ぼくたちの近代史」の中で子供のころの温かい思い出があれば、その後の辛さに耐えられると書いていた(様な気がする)。
私は自分一人で孤独に耐えることのできないメンタリティーをしていないことに胸が痛む。家庭でもできれば変わるのだろうか。←それは依存か