なぜ私だけが苦しむのか(その2)

ブラッドジャケットのテーマは神に関することです。通常思われる神と違うような気がするし、同じもののような気もする。作者の神観が気になるかな。

で、「なぜ私だけが苦しむのか」ですけど、神問題です。クシュナーは神が全知全能であるとは考えていない。道徳の指針としての神、と言いきろうとしてちょっと違うな。ともにある存在。・・・バオイモドキ神もありっすかね。この本は人並みに善良な人向けなので、とりこぼしたか。

しかし、奇跡とはどのようなものか。で、感動する程度には、私も人並みな回路をもっています。いいっす。

絶望的な症状で死を目前にした子供の親が奇跡的な治癒を願って祈り、その子の伯父や伯母、祖父や祖母、そして教会や寺院の信者たちがともに祈りをささげても、その子が死んでしまった時、私たちは奇跡は起こらなかったと考えてしまうのでしょうか。(省略)

むしろ、それはひとつの奇跡なのではないでしょうか。(省略)

かすがいともいうべき大切な子供を亡くし、この上ない苦しみに身も心も引き裂かれてしまいそうなこの夫婦が、離婚して引き裂かれることなく夫婦として生きていることが奇跡なのではないでしょうか。

あるいは、共に祈りを捧げてみても、何の罪もない子供が病気にかかり死んでしまうこの世の現実を目のあたりにした信者たちの信仰が、死んでしまうことなく生き続けていることが奇跡なのではないでしょうか。

弱い人たちが強く生きていくのを見たり、臆病な人たちが勇気を得たり、利己的で自己中心的な人が他人を思いやることができるようになるのを見る時、私たちは奇跡が生じるのを目のあたりにしているのです。

言いがかり→人の思考回路には結構むらがある。私は事故った時に逢魔ヶ時の存在を確信しました。いつもはそんなことしないのにさ。そのいつもはそんな事をしないムラを奇跡と呼ぶには抵抗がある。いつもとしないことをして良いと思われるときもあれば、悪い目がでることもあるし。

それに、この引きこもりとか派遣村が話題になる日本に人とのつながりが薄いなんてざらにありそうで、その人は奇跡に見放されているのか。う〜ん、確かに一緒に暮らす家族や派遣村にいけるひとはまだネットワークに属していそうか。

とか、いろいろ考えるわけです。

でも、最後の締めの言葉に説得されてしまいました。

…締めの言葉までたどり着けるのであろうか。続かないかも知れない。